苦しい。
もっと、苦しいというか、考えすぎてしんどいみたいなことは、過去にたくさんあったはずで、ずっと賢く(鈍麻に)なったのだからあの頃より苦しいはずはないのに、苦しさを苦しさとして取り出してみたい、苦しいと言ってみたい、という気持ちがあるのは不思議だ。苦しいと、昔は言う気持ちにはなれなかった。結果的に「苦しいです!」と喚いていた気はするけど。
8月にMDノートジャーナルを新調して、そこから1か月ぐらいは書けても数行みたいな体たらくで、ろくに日記めいたものを書けてなかった。その後9月の中旬ごろから再び精力的に書くようになって、だから回復途中、適応途中なのだと思う。意識してかなり正直に細かい感情も拾って書いているのだが、まだ言葉にできていないものがあるのかもしれない。色々なことが起こっていて、それを無意識に取り込んで、自分の中で整理がつけられていないのだ。
何が苦しいのかわからない。なぜそれを苦しいと思うのかがわからない。
苦しいことの延長線に「出かけられない」というのがある。ちょっと遠くに出かけられなくなった。出かけなければ、と思うのに、怠惰な時間が過ぎる休日が嫌いだ。そこまで言葉にして気づく。自分、やばいか?
昔から休日というものの過ごし方がすごく難しくて「休みたくないが休んだ方がよく、その矛盾が故に結果的に活動停止に陥り体は休めていると思うけど気持ちは休まらず、自分が許せない」みたいなのはあって、今は特に動けてないので許せない感情が強まっている気がする。なるほど。そんなこと思う必要ないのに。
話は変わるけど、刺激に対する反応は色々バグってそうなのに(いや、他の人もこんな風に、いやこれ以上にごちゃごちゃ考えているのかもしれない、大いにある)極端に体調不良にならない私のからだが偉すぎる。遺伝子に感謝。先祖に感謝。よく眠り、よく食べ、よく動く。が、このごちゃついた思考を、おそらくそのうち留めておけなくなる日が来る(衰えによって)。そうなったらどうなるのか、先人たちはどうしているのかは結構気になるところだ。自分の持っている力を、もうちょいありがたいと思った方がいい。書きながら思った。
考えすぎてはちきれそうでどこにも行けないならば、まずはひとつ、自分のやりたいことをやるのがいい。今やりたいことはおいしくて甘いカフェオレを飲むことなので、少し歩いたところにあるカフェまで足を運び、それをテイクアウトしよう。大したことない、と思わないこと。大きなことをしよう、と思わないで。