はじめましてガレット

その店を知ったのは偶々だった。本当は別の、かねてから行きたかった喫茶店に行くつもりだった。だけれど私は喫茶店には行かずにガレットを食べることになった。その喫茶店はいくつか電車の乗り換えを経てたどり着けるお店で、乗り換えのことを想像すると、どっと疲れたからとか、先日アイスコーヒーは飲んだからもう少し期間を空けて飲みたいなとか。ガレットの店は現在地からほど近いところにあって、私が歩いたことのない路地にあり、私はガレットを食べたことがなかった。だからガレットを食べることにした。

(店のドアを開けるときに、私はこっそり井之頭五郎を憑依させた。)

その店はコンパクトな店だった。キッチンに沿ってカウンターで数席、反対の壁にもカウンターで数席、奥に2人掛けのテーブル席がふたつ、それだけだ。100円均一のセリアみたいな、無害で無機質な印象を覚えた。率直に書けば、私の苦手とする雰囲気だった。

ビニール素材でコーティングされたメニューを、井之頭さんのようにめくる。我がままに、感覚に身を委ねてメニューを決める。デザート系か食事系か迷って後者を選んだ。女主人(今のところこの人しか見かけていない)に声をかけるときに少し緊張した。私以外に客はいない。

水を一口飲む。私は井之頭さんのように実況することはできない。頭の中に言葉がないからだ。仕方なく、ガレットが出来上がるまでノートを取り出して心に浮かんだことを書きつけてみる。ハム、卵、チーズ(ガレットのトッピング)。雨。ドーナツ(この店にやって来る途中におしゃれなドーナツ屋さんを見つけたのだ)。煙草(バーの前で五、六人が煙草をふかしていた)。書けることはそれぐらいだった。緊張していた。何に対する緊張だろう。自分でもよくわからなかった。

やがてガレットが運ばれてきた。白くて薄くて平たい皿に、扇形の香ばしく焼かれたガレットがのっていた。白身は焼き、黄身は生の卵がつやつやと光る。私は少し震える手でナイフとフォークを握ると、食器のあるべき役割として器用にガレットを切り分け口に運んだ。

分厚いハムもまろやかな口当たりのチーズも、卵の黄身を絡めて食べるガレットもおいしかった。そしておいしいこと以上に、食べたことのないガレットを食べていることに意味があった。

言ってみれば、それは単なる栄養補給でも、単なる好奇心の充足でもなく、未知の体験だった。それを「おいしい」の一言で表現するには勿体なさすぎる。それが初めてではないだろうに、ナイフとフォークを使って切り分けることでさえ楽しかった。ゆっくりとガレットを食べ、紙ナプキンで唇についた黄身をぬぐい、皿の上は綺麗になった。

本を読むことについて

 本を読んでいる。きちんと読めている。読めていない期間もあるにはあって、だけれど、少なくとも今はそのタームではない。私はちゃんと本を読んでいる。

 本を読みながら考える。私にとって読書の一番の目的は(目的という言葉は少しニュアンスが違うが適当な言葉が浮かばないので暫定的に用いる)今、自分が身を置く世界とは別の世界に飛ぶこと、ただそれだけなのだと思う。だから、正直十分に飛べるのであれば、ストーリーは気にしなくて、少なくとも私は、好きな小説を「ストーリーが面白いから」という観点で選ぶことがない。読み終わった果てにあるものを欲しているわけではない。読んでいる渦中に身を置くこと、それが最も大事なことなのだ。

 いつかは戻らないといけない。悲しいことだ。でも本はパタリとページを閉じれば終わってくれる。私は戻ることができる。それもまた、得難い性質だと思う。飛んだままではいられないということが。

 さて、別に人間は飛ばなくても生きていける。事実、私は自宅で本を読むのがあまり得意ではない。それはどうしてか考えているが、そもそも家は比較的安全な場所であるからだとか、世界として完璧であるからして飛びにくいとか、そもそも読む習慣がないだけだろうとか、色々思いつくことはある。ここで言いたいのは、私は家にいるとあまり本を読まないということだ。つまり、家にいる日々が長く続くと、自ずと飛ばない期間が長くなるということだ。

 飛ばなくても生きていけるが、飛ぶということは自分にとって大切なことのようだ。それは世界が複数あるということを体に叩き込む行為だから。世界を複数有するということは、それぞれを相対的に見られるということで、この「相対的に」というのが大事らしい。

 ちなみにゲームも、おそらくは飛べる可能性のある世界だけども、私はゲームでは飛べない。そこにリアリティを感じないのと、ゲームに対する耐性が年々弱くなり長く遊ぶことができないのが理由だと思う。感覚的に、ゲームは強すぎる、と感じる。アニメでも漫画でも飛べない。映画は他のものよりは可能性はありそうだ。

 私は本を読んでいる。それは私にとってとても大切な行為なのである。

夜の雨

生暖かい空気が満ちている。雨が不規則に降る。時に穏やかに、時に力強く音を立てて。湿度は高いだろうに口の中が渇いているのを感じる。何か冷たいものを飲みたい。帰宅するまでの辛抱である。ぬるい空気が長袖トレーナーとウィンドブレーカーの隙間に入り込むのがわかる。素肌で触れてなくてもわかる。不吉な暖かさがそこにはある。

トレッキングポール

 階段は階段だと認識したときから階段である。今、思いついたことです。著名な誰かの格言ではありません。

 私にとっての階段は何か。そりゃあ色々あるけども、この瞬間ぱっと思いつくのは、目下取り掛かり中の仕事のことである。手をつければ私のことだからある程度前向きにこなすことはわかっているが、辛いのは手をつける前である。じめじめとした嫌な雲が頭の中でどんどん湧いてくる。それを「憂鬱」と呼んで差し支えないだろうか。多分憂鬱と呼べるものなのでしょう。でも私は、憂鬱というのはもっと湿気があって行き場のない感情だと思っていた。この雲を憂鬱と呼ぶならば、私の人生の大概の物事は憂鬱になってしまう。

 雲を晴らすには、トレッキングポールを持つことである。私は階段を低く細かくする。エクスプローラーをひらく。Excelをひらく。メールを読む。そういう本当に些細な一段を、ノートに書いてできたら赤線を引く。次にやることを書く。できたら赤線を引く。そのうち体が乗ってきて、雲はいつの間にか消えている。ボールペンとノートは、私にとってのトレッキングポールだった。それは仕事だけでなく、あらゆる場面においてそうだった。使うことで登るのが楽になるのであれば、使えるうちは使ってみたらいいのではないかと思う。

 でも、時々思う。それほどまでにきついのであればそもそも山を登ることをやめたらいいのではないかと。ただそれは究極、生きるのやめたら?になりそうで、却下だなあと思う。なお、私はまだ本物のトレッキングポールを持っていない。せいぜい低山ハイクだし、長い長い散歩でも今のところポールを必要としていない。皮肉だこと。

春の気晴らし

 そりゃあ楽したいですから混雑していなければエスカレーターに乗る私、でも行列ができているとおとなしく階段でのぼる。今日も改札口に上がるための長い長い階段をのぼっていたところ、息が切れないことに気づく。日頃の散歩のたまものだろうか。今日の歩行距離はおおよそ13㎞。

 

 言葉が苦しいと思う。違うな、ニュアンスを正確に伝えることは難しい、無理。大事なのは、私ではあり得なかった方向へ「飛ぶ」ことなのだから正確さは最初から度外視。ただ、いつも疲れる。伝えるという行為はいつも裏切られることに他ならないと思ってしまう。そこに拘泥しないこと! だけど執着してしまうのだな、人間だもの。

 村上春樹を読んでいる。2023年になって人生で初めて(と言って差し支えないと思う)氏の物語を読んでいる。読みながら、なんかうぜえなと苛々してくる。嫌な感じではないけども。読んでも読んでも終わらない。章に分かれてるので、休憩しながら読む。ディテールへの苛々? 村上春樹の世界は、一枚の風景画の上を滑る視線。電車は川を渡った。とととん、とととん、と一定のリズムを刻む。

 次に乗る電車まで90分。駅を出てカフェに入る。酸味の強いアイスコーヒーを飲んだ。あとはジェラート。おいしい。

 

桜。

 

川。

 

誰か。

 そして眠い。このまま死なせてくれと思わなくもない。宇多田ヒカルの「誰にも言わない」を延々と聴きながらテキストを探っている。水面を見ると、とろとろと鴨らしき鳥が泳いでいる。可愛い。やっぱり、問題は他人の感情の様な気がする。気にしすぎるというか、いや、他人がどう思おうが知ったこっちゃないが、変に想像力を膨らませる、ところがある。それは優しさじゃない。共感でもない。他人の感情に興味があるわけではないのだから。昔から同じところを堂々巡りしている。できることは、低減とエネルギーの保持と思い込みを解くことぐらいで、でも解決したいのよな、そういうことでしょう?

 気晴らしを続けること。

目玉焼きハンバーグ

 幼馴染ふたりと食事。目玉焼きハンバーグ(ドリンクバー付き、ライス大盛り)を注文して、確かにハンバーグを食べたと思うがどういう味だったか覚えていない。人と食事するとき、ご飯をゆっくり味わえた試しがない(というのは言い過ぎ)。

 よく喋り、よく笑い、よく飲んだ。趣味も価値観も性格も性別も異なり、幼稚園からの仲とはいえ、格別に仲が良かったわけではない間柄、しかし、私たちは善良だった。ある一定の年齢まで、同じ空気感、同じ土地で生きてきたからこそ共有できる「人の良さ」みたいなものがあった。Aは脂肪肝で健康診断でE判定を食らい(それでもなお煙草はやめられないと言う)、Cは異業種への転職を考えていた。私はもう余生で、人生2回目のような気持ちだから今が一番楽しいと言った。

 別れたその足で私はプールに向かった。体は重く、頭の中は先ほどまでの会話が抽象的なイメージで反響していた。メンタル的な疲労は、フィジカルな疲労で塗り替える必要があった。それは「脱色」と呼べる作業だった。400mを一気に泳ぎ、私は胃の中のむかつきを感じた。貧血ぽかった。

 ひどく疲れている。