微糖

微糖の缶コーヒーが甘ったるくて持て余していた。一日かけて飲んでも無くなる気配がない。この甘さは、コーヒーとは別の、独立した存在だと思う。こいつをコーヒーと呼んではいけない。微糖の缶コーヒーだ。

と、机に置いたそれと睨み合いをしていたところで閃いた。私は立ち上がると、グラスに牛乳の冷えたのを注いで戻ってきて、少し飲んだ。量が減ったところに、飲めない微糖のコーヒーを注ぐ。両者はすぐに溶けた。かき混ぜる必要もない、あっという間の出来事だった。カフェオレを飲む。美味い。甘さがほどけて飲みやすくなった。なんだ、缶コーヒーってこういうふうに飲めばいいじゃん、と思った。

おいしいカフェオレを飲みたい。ミルクとコーヒーと砂糖のバランスが私にぴったりと寄り添った配分のものを。でも、何だろうな、完璧に私に合わせてくれたもの、って魔法だと思うし、存在したらそれはそれで気持ちが悪いなと思ったりして、撤回。私のことは考えなくていい、ただしミルクのコクが強い、カフェオレを飲みたい。

53階

森美術館に行くための、52階から53階に上がるエスカレーター(とそのエントランス)は結構好きだなと思う。どこかの(某ネズミの国の)スペースマウンテンだかそんな名前のアトラクションのエスカレーターに似ている。ああ、あのアトラクションももう終わりだったか。あるいは、表参道か有楽町の東急プラザでもいい。ホール(穴)に吸い込まれていくような感覚は「いよいよ」という気分にさせる。

とはいえ、何故53階に美術館がなければならないのだ(53階は美術館の必要条件ではない)と思わざるを得ない。同じことをサンシャイン水族館にも思うのだけど。

一方で、53階に美術館があってもいいし、ビルの屋上に水族館があることは許されると思う。何事もそういうものだ。

細胞分裂

 どうやってもノートが増える。細胞分裂のようにノートが増えていく。私の興味関心が弾ける度にノートが増える。そして、そのうち細胞は死ぬ。ノートは燃やす(焼却処分)。これがノートだからまだ良い。化粧品やゲームや服だったら、ここまで穏やかではいられないような。

 今が楽しいを日々更新している。考えてみれば学生時代とか最悪だったなハハハ、と思う。何もなかったけど、本当に何も考えてなかったな、と。いや、自分なりに考えていたのだけど、ぜんぜん足りなかった。多分今もまた遠いどこかから振り返れば同じなのでしょうけど。

 できることは少ない。それを嘆かない。

2024年3月の本の読み方

本を読もうとしている。何故? 何故だろう。別に読まなくてもいいのだけれど、読んだ方が連鎖するからだろうか。コンボがつながりやすく、稼働し続けるから。

読み方を少し変えた。変えてから今のところうまくいっているように思うので、それを記録していく。

本は並行して読んでいる。このこと自体は珍しくない。今は、5冊だ。机の隅に立て並べている。積み重ねては駄目だ、立て並べなければならない。手に取りやすくすることがまずは大事。

作業の合間合間に読んでいる。1回あたり3分から5分。この時間は集中力が続けば6分でも10分でもいいけれど、本の内容によって集中の持続時間は異なる為、一旦一律で3分にしている。3分くらいならどれほど難解な内容であっても維持できる。

3分経ったら本を閉じる。そして読書とは違う作業をする。それが一段落すれば、また次の本を読む。作業→読書1→作業→読書2→・・・→作業→読書5→作業→読書1と、何度も繰り返していく。

この読み方の特徴は、意欲のメリハリを作ること、である。本によって、作業によって、時と場合によって、やる気というのはまちまちで、それをコントロールするのは難しく、どんなやる気であっても手をつけられるように、私はやる気は完璧に制御できないという問題を、やる気の相対化、で解消しようとしている。

早い話が、作業Aと読書1を比べたとき、どちらがより楽しいかというのを比較して、仮に作業Aの方がより前向きになれる場合「作業Aを楽しんだのだから、読書1もこの調子で楽しんでいきましょう!」という勢いづくりをしている。あるいは「作業1を頑張れば、読書1にこぎつけることができます、頑張りましょう!」でもいい。

本の順番も大事になってくる。しんどいと思う本は読みやすい本で挟むよう意識して並べている。

 

本Aが峠を越えた。総ページの半分を越えた。ここから一気に読むペースは上がっていく。スピードに乗ってくると私は心の中で「キタキタキタキタキタキタキタキタ」と唱える。賭博はやったことないけどこんな感じで楽しいものなのだろうかと思ったりしている。キテイル。半分を越えた読書はとても楽しく、あとは坂道を転げ落ちるように読む。

解凍

 出かけた当日はさほど日記を書かない。だいたい朝に書いた分だけになる。帰ってからは何も書けない。そして出かけた翌日もまた、日記を書くのが辛い。それが面白い。

 心が硬直しているようなのだ。多分、あまりに充実しすぎて、また色々なものを溜め込んで、吐き出し方がわからないのだろう。例えるなら、溜まった液体の量に対して排出する管が細すぎるのだ。だから、一気に書き出そうとするとうまくいかない。そういうときは、3分だけ書く、と決めて、少しずつ少しずつ外に出していく。整理していく。私はそれを「解凍していく」と呼んでいる。

 書けないからと書かずにいると、そのうち硬直が慢性的になり調子の悪化に繋がる。イベント事の後に調子が悪くなりがちだったのは、そういうメカニズムだったのではないかと、今なら思う。

ラテの待ち時間

Hiと挨拶され「こんにちは」と返し、一瞬気まずい空気が流れ、お兄さんと「ふ」と笑い合い、私はラテを注文した。観光客が多いこの店で、この時間帯であれば、「日本人」の方が少ないのかもしれない(「」にしているのは、私にはよくわからないからだ)。店員さんは流暢な英語でその後のお客さんとコミュニケーションを取っている。話している。すごいなあと思う(私もそうなりたい)。こんにちは。こんにちは。当たり前のように行われる応答は、当たり前ではないということを意識させられるし「こんにちは」って何なんですかね、そして私とあなたが意思疎通できてることって何なんですかね、と考えてしまう。ラテの出来上がりは、なかなか待つ。

エスカレーター

東のエスカレーターは、みんな左側にばかり立つ。そして、一般的にエスカレーターは歩いて上らない方がいいらしく、そう案内しているところが多いし、条例が制定されているところもあるくらい。

私が生きてるうちに、左側も右側も乗ることが当たり前になるのかしら、と思うことがある。それは植樹に似ている。植えた木が大きくなる過程をいまいち想像することができないみたいに。

でも、未来が見えないからって行動しないなら、何も変えられないと思うのだった。イスラエルは今すぐ停戦するべきだ。彼らがその姿勢を見せなくてもそれは言い続けなければならない(そして私はそれを日頃から主張できてないのだけど)。政治的なイシュー以外のことであっても、これってどうしてですか?という疑問と、それに関する思考と、表現は、続ける必要がある。

 

右側に立つのは「左側ばかり立つくらいなら右側にも立って乗った方が人を捌けて混雑解消されるだろうに、右側が空いてるのに左側ばかり乗るせいでエスカレーターの行列ができてるなんて、神様が見てたらさぞ馬鹿げてる風景だろう」と思うからと、それ以上にエスカレーターが可哀想って思ってしまうからだ。あなた、どう考えても左側だけ荷重がかかったら歪むでしょう、バランスよく均等に乗って欲しいわよね、おそらくは、とエスカレーターに対して思ってしまう。極端な言い方をすると、エスカレーターを上がるときの誰かの靴音が、そのまま誰かを殴打するときの音のように聞こえる。モノに感情移入してしまうことは、ときどきある。

 

普段、エスカレーターと階段があるときなるべく階段を使うように心がけているのは、自分の体力維持のためでもあるけれど、上記の理由でエスカレーターに乗るのが嫌になったからというのもある。少なくとも私は加担したくない。

 

エスカレーターに乗らなければならないのなら、なるべく右側に立つようにしている。朝のラッシュなどは(憎々しいけれど)難易度が高くて、だからそもそも階段を使うけど、右側に立つためにもう少し厚かましくならないとなあと思う。難しい。でも、率直に思うけど、どうしてエスカレーターを正しく安全に乗るために、厚かましさが必要にならないといけないのだろう。

階段を使うことができて、かつ、急いでいるならば、階段を使いましょうと思う。あなたには階段を駆け上がる体力があるのだから。あなたの省エネ思考で(すなわち階段を駆け上がるを力を少しでもカットし、その分をエスカレーターでブーストしてもらう)危ない思いをする人がいるのは、どうなのか。

様々な理由で階段を使えない人が安全に上に上がるためにエスカレーターがあるので今後も地道に抗っていきたいと思うけど、多分「邪魔だよこの女」とか思われてるのだろうな。でもさ(以下略)。

 

ちなみに、エスカレーターの右側に乗ってるだけで、私以外の誰かに意地悪してる気分になる、別に意地悪するつもりなんてないのにね。そして、私は普段、意地悪はしていないつもりだから、エスカレーターに乗るときは普段やらない意地悪を疑似的に味わえて、それはそれで面白いです。

 

右側に立っていた私をくの字を描くように追い抜いていったおばさんに、私はムッとしてしまって、この文章を書きました。