精いっぱい努力します

 「精いっぱい努力します」と挨拶のメールには書かれてて、率直に「怖」と思った。もちろんその人の落ち度はまったくない。その人に対する感想でもない。

 あまりお世辞が言えないもので、私なら思ってなかったら言わないだろう言葉。そして、精いっぱい努力します、なんて私は思わない。他者にも言わない、気がする。でも、対外的に言っちゃうかな、言ってしまうかもな。

 努力は、私との間にある、私だけが知っている約束みたいなものだから。そもそも努力しないし。頑張りたくないし。でも頑張ってる。勝手に私は頑張ってしまうから、せめて自分のために「頑張ります」と宣言したくない。「努力します」と他者へ言質を取らせたくない。

 精いっぱい努力しなくてもいいけどな。読み終わったメールを削除する。メールの整理もまた難しい。

通過するもの

 植本一子『愛は時間がかかる』を読み始める。以前に買ったもの。図書館特有のフィルム越しではなく、直接本を触ることができるのが嬉しい。

 

 何度も書いていることになるが、私は考えていることが言葉になっていない。色のついた霧のようなもので、なんとなく「これは危ないな」とか「好きじゃないかもな」とか「好ましい」とか、感情が薄く色付けされている程度。あらゆる出来事が、自分にとって何だったのかを意識して言語化しないとよくわからないまま、という、非常にぼんやりした世界に生きている。他の人はどうですか? そういうものですか?

 この世界に生きていると、他者への評価というのも非常に抽象的、曖昧で、一般的に私は人の好悪を判断するのが苦手だ。それは性格的なものもあるだろう。本を読む時も同様で、書き手のことも登場人物のこともよくわからない。強い感想も持たない。判断しない。

 読書は、他者は、ただただ私の中を通り過ぎる。

アナログ時計

 小さな卓上のアナログ時計を買う。

 もちろんアナログ時計を初めて見たわけではないのだけど、自分でアナログ時計を買うのは初めてだった(持っているのはデジタル時計ばかり)。

 黒くて四角く小さな時計を眺めながらふと思った。アナログ時計というのは「時間を位置で示している」ということ。

「デジタル時計だと時間の計算がしにくい」

 そう言う人がいた。言わんとしていることはわかるが、デジタルの方がむしろ計算しやすくないか?と思っていた。

 アナログ時計は針の位置で時刻を示す。針がどこからどこまで動いたかによって時間がどれほど過ぎたのか、視覚的に理解できる。なるほど、こっちの方が時間を把握する上ではわかりやすいのかもなと思った。私は何年生きているのだろう。今、この気づき?

 時間を気にするようになったのは(つまり今、この時計を買ったのは)やりたいことが色々あるからだった。円に沿って配置された数字を順番に見ていく。ぐるぐる、ぐるぐると針が回り、時が過ぎる。平等に。21時14分。今から眠って何時に起きることができるだろう。明日は何をするだろう。どの数字からどの数字の間に私は何をするのだろう。

 と、ここまで考えて、私は時計をどうやら「時刻を確認するためのもの」というよりは、一日をどのような時間配分で分割するかの視覚的補佐みたいな風に使いたいらしい。針と数字を見ているようで、もっと他のことを考えている気がする。

 買ってからまだそこまで時間は経っていないが、既に時計に愛着を感じてきている。

変換

 朝。散歩。珍しくヘッドフォンをしない。ボイスレコーダーを立ち上げる。

 余裕がないとき、自分の生活を自分主体で回しているという感覚に乏しくなる。味のしない食べ物を食べている気分。息も絶え絶え。ふと、息を吐くことができるタイミングで、時間をスローにしてみればいい。が、難しい。脱皮するときの(私は脱皮したことがないけど)窮屈さ。私の場合は、音楽を聴かないこと、家事を一つ、心を入れて行うことが、足掛かりになる。

 内なる感情を、あるいは思考をとにかく吐き出せ。それは正しい。その上で、可能であるならば、変換を楽しみたい。同じことを言うのでも表現を変えるだけで気の持ちようが変わってくるから。薄いガラスの高い音のような、軽やかな響きに変換できるならしたい。あるいは、原油のようなどろっとした液体に変換してもいい。表現として美しいように変換する。救いのあるように。

74人

 働く場所がある建物のエレベーターが嫌いだ。通勤路も嫌い。フロアも嫌い。人間関係は良好なこともあればそうでないこともある。働くことそのものは、嫌いじゃない。

 エレベーターにいつからかプロジェクターみたいなものが導入され、ドアに館内のお知らせやインフルエンザワクチンの案内、時事ニュースが投映されるようになった。なぜ。まあ、いい。

 パレスチナガザ地区で子どもが74人死亡のニュース。74人。74人、か。漬物石みたいな大きくて重たいものがずどんと体の奥に落ちるような、暗澹たる気持ちになる。え、自分、どうして働いているのだっけ。こんなことしてていいのか。モニタが置かれたデスクの合間を抜け、自席に戻りながら、74人という数字と自分の現前するつまらなさのギャップに眩暈がするようだった。こんなこと、していていいのか? さらに気落ちさせたのは、今日の私がたまたまいつにも増して不安定な精神状態であり、だからたまたま数字に反応しただけではないのかということだった。人はずっと亡くなり続けているのだよ?

 色々なことがあった。手製の弁当を食べた。仕事がうまくいかなかった。電車に遅れないよう小走りで駅に向かった。上役と面談をした。聞き上手を実践するべく話を聞いた。行きたかった喫茶店に寄ってアイスコーヒーをテイクアウトした。売り上げが募金に充てられるクッキーを買った。パレスチナ虐殺をやめろ、という意思表示のカードを見かけた。それが私の生活の一場面だった。通り過ぎていく出来事だ。

 問題は、そういうことをじっくりと考えたいが今の私には時間も体力もないということだ。忌々しい!

 74人に思いを馳せる。私たちはいつかその報いを受けるだろうと思う。

遠くに遠くに押しやって

 使おうと始めて、その後飽きて無関心となってしまった、打ち捨てられた廃墟みたいなメモアプリに、書きかけのテキストを見つける。個人的な記憶を素材にフィクションに加工して書いたもので、それが結構面白かった。私が書いているのだから仕方がないのだが、私の好みの文章だった。確かにそんなことを考え、書いた記憶はある。が、今の私には書けない、ほぼ他人の文章になっている。

 なるほど。「寝かせる」ということはこういうことか。唐突に腑に落ちた。月日の経過という篩にかけられ、その文章を書いた時点の私と今の私の相違により、それが自分だと認められる範囲を越えてしまったということだろうか。

 近すぎると書きづらい。何かを見るとき、近すぎると上手く見ることができないのと同じように。離れるための手段の一つとして、他のことを考え忘れてみる、というのは良い手段かもしれないと思った。

 また続きを書いてみようと思う。しかし、どういう風に終わらせたかったのか、構想も遠く遠くに押しやられてしまった。また考え直せばいいか。あるいは、考えないまま次ぐのもいい。

聞き上手

 数年積読していた、聞く技術に関する本をふと読んでみようと思って、平積みのタワーから引き抜いて本を開いた。いい雰囲気がする。

 導入で「あなたは何故聞き上手になりたいのですか?」という問いがあった。その答えはあなたがこの本を読む中で立ち戻るべき原点になるものなので、ここで考えてみましょう、とのことだった。

 考えてみた。

 私は、人の話を聞くことがあまり好きではないのだと思う。情報を得るという意味では、好奇心がある方だから人の話を聞いていたいが、相手によっては、その人の感情をただただ処理する機械みたいに自分のことが思えて、そのことに苛立つのだと思う。どうして私があなたの話を聞かないのいけないの?あなたは私の話を聞いてくれない、理解しようとしてくれないというのに。人の話を聞くことは、我慢を強いられることだと思うなら、それはすごく不幸なことだと思った。

 私の不満自体はあっていいと思う。一方でそれを相手に押しつけるのは違うと思っていた。満たされないなら、別の方法で満たすことが私にはできるはず。

 人の話を苦もなく聞ければいいなと思っていた。そうすればもっと楽に、もっと楽しくなるだろうと思った。私は私の為に聞き上手になりたい(利己的な人間なのだ)。でも、ちょっとは相手を思った方がいいのかしら。そう、そういうところが駄目なのかもしれない。

 それが私の、聞き上手になりたい理由。