雨が降ってきた

 川を眺めることができるその場所で柵に近寄ると薄墨を塗りたくった色をした川をぼうっと見ていた。右手にはカフェオレ(セブンイレブン)。おかしいな、ガムシロップを入れたはずなのに全然あまくない。

 手紙について考えていた。綴ることは糸を通した針を動かすことと等しいように思えた。一つひとつ最適解を模索する。手のひらからこぼれていく水。針、糸、右手と左手。

 プラスチックの容器をふるふると揺らすと、透明な氷がぐらんぐらんと回った。いつの間にかカフェオレを飲み干してしまったようだ。なんだか勿体ないことをした。そして眼前を白い船が横切っていく。

 雨が降ってきた。冷たい雨だった。ぽつり、またぽつりと頬に。そのとき私は「自分は雨に降られるのだ」と思った。

クレープ

 帰り道にクレープを頬張りながら私は、

「やっぱりクレープは単独三位かしら」なんてことを考えていた。

 好きな食べ物ランキングだと、一位はキャンベルのスープ缶のクラムチャウダー(三人前というこの缶を私は一度で一気に食べる(スープだから「飲む」かしら)。好きなので自然とそうなってしまう)。二位はアボカドを使った料理(アボカドが入っていればなんでもいい。どうしてあなたはそんなに美味しいの?と心の中で語りかけながら食べる。口の中に濃厚なアボカドの風味が広がる)。

 今のところ三位になる食べ物はたくさんあって、いずれも同じように愛してやまない食べ物たちであり、クレープもその中に入っているのだけれど、私は運動した帰りにクレープ屋に寄ってお金を引き換えに受け取ったクレープを食べながら、こんなに美味しいのだからクレープは単独三位にしないとおかしいのでは?と考えていたのだった。

 バナナチョコ、イチゴバナナチョコ、イチゴチョコ。この三つのクレープが同じ値段なら、イチゴバナナチョコが一番お得じゃないか。そう思って「イチゴバナナチョコを」と店員さんに伝えた。出来上がったクレープをくるくると紙に巻いて若い女性の店員さんが私に差し出す。私はそれを両手で受け取る。

 クレープってどう食べたらいいか分からない。巻かれた紙をするすると解いても最終的に現れるのは剥き出しのクレープで、剥き出しのクレープを素手で触らない為の紙なのだ。仕方なく巻き直して上の方の紙をびりりと破っていく。ぱくつけるくらいになったら一思いにクレープにかぶりつく。べたんべたんの生地と生クリームの甘ったるさとイチゴの酸味とバナナの甘みに私は嬉しくなる。いまだにどう食べるのが正解なのか分からないけど、クレープは美味しい。

鎌鼬

 好きな漢字は、為、静、瀬。

 苦手な漢字は、施。

 「かまいたち」は「鎌鼬」と書く。鼬の字ってどう書けばいいのだろう。私はわからなかった。「鼬 書き順」で調べた。正しい書き方を覚えるべく何度も鼬鼬鼬鼬鼬と書く。漢字を書くのは楽しい。書けば覚えられるし、語彙が増えるのは嬉しい。

20210923

 駅へと向かう。昨晩降った雨の残り香が澄んだ朝の空気に溶け込んでいる。湿ったアスファルト、コンクリートの塀、側溝の蓋と蓋の間に生えている鮮やかな緑色の苔。マスクをすると匂いってある程度は遮断されるものなのだな。ふうと息をつき、そして目いっぱい空気を吸い込む。鼻でくんくんと嗅ぐ。そうして一日が始まり、駅に近づいてきたのでマスクを再びつける。

 電車に乗ることが好きだ。とても、好き、だと思う。考えごとをするのにぴったり。本を読むのもいいし、音楽を聴くのもいい。私の好きなことを存分に集中してできる時間が電車に乗っている時間。ある程度乗客が少なくなると、私は鞄からノートとペンを取り出して浮かんできた言葉をひたすらに書き留める。普段の生活に埋もれてしまった言葉が浮き上がってくる。私はそれを網でパッと捕まえて忘れないように紙に書き起こしていく。いくつかについてはその場で考え始める。山、神社あるいはお寺、うんざりするほどの石段を上ってみたい。不倫と浮気の違いは何?その違いは、まあ、わかる。じゃあ浮気の定義とは。そもそも人によって浮気の定義がばらばらなのだから個別具体的にすり合わせる必要があるのかもしれない。私にとって興味深いことであり、事象としてもすごいことだと思う。苦しい思いをされている人には申し訳ないのだけど。山と稲穂が見えてきた。山、嬉しい。後ろめたさを感じながら山との出会いを喜ばしく思う。それは誰かの日常だ。私の非日常ではあるものの。ちょっと遠くに出かけるたびに、私は自分の生活や生き方について考えてしまう。見る側と見られる側という構造は逃れられないかもしれないが、できるだけほぐしたい。できるだけ自分をその場所に溶かしたい。

 川のある町だ。川も好き。短い映像を撮り溜めたいという気持ちは以前からある。ビデオカメラでも買おうかしらと思って結局コンデジを買ったのが1年前。川のせせらぎを聞いていると、やっぱり動画を撮ってしまう。機械に記録された生活音の愛おしさについて誰か語っている人はいないのかしら。私のスニーカーが砂利を踏みしめる音、車がやってきて去っていく音、小鳥のさえずり、魚が跳ねる音、店前の雑談、どれもが愛らしい。移動手段が自動車である町で歩く私は歩行者となる。信号機のない横断歩道を渡ろうとして車が来たので足を止めると、車は横断歩道の前でぴたりと止まった。軽く会釈して私は道を渡り始める。または、国道または県道など交通量が多く車がただただ流れていく道路に沿う歩道を歩く。そういうとき、私は自分が歩行者であるのだと強く感じる。これは孤独なことだった。私と、町と、歩くことがセットになる時、そこには孤独が生まれる。あるいは逆?つまり孤独であるとき、私と町と歩くことがある。国道や県道にぎゅぎゅっと商業的なものが詰め込まれている様が興味深い。スーパー、ガソリンスタンド、牛丼チェーン、カースタンド、レストラン。安心する。その町ならではの風景と、全国画一的な道の風景が共存している。

 ラーメンを食べる。久しく(個人的な「久しく」である)店ラーメンを食べていない。美味しさを求めようとすると途方に暮れること、いい加減疲れた。ぐるなび食べログも葬り去りたい。探すことにも比較することにもより良いものを求めることにも疲れた。ただでさえストイックに歩いているのだ、食べる場所?みんな美味しいよ。そうは言っても、食べログで探して、あたりをつけた店に向かい、この店なら落ち着いて食べられそうと思って並びラーメンをすする私。ちゃんと美味しかった。店を出ると元気が湧いてきた。そう、空腹だと私はネガティブになる。この町をもう一周しよう、空腹が満たされ気力も湧いてきたので見えてなかった午後の予定がするすると決まる。

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 同じ町を異なる時間帯に複数回歩くというのは面白いと思う。同じルートを歩いても日の入り方で随分見え方が変わるものだから。川の水の透明度は少し下がったか。鯉が動かずにじっとしているのが見える。『千と千尋の神隠し』で、千尋がハクと初めて遭遇するシーン(湯屋の橋の上)が好きで、ありえないスピードで日が落ち影が動く絵を思い出す。西日は人を悲しい気持ちにさせる。線がはっきりと濃くしゃきっとしていた町並みが、西日によってまろやかになっていくのを私は綺麗だと思う。とにかく一日ものすごく暑かった。肌が焼けなければ暑いことには耐えられると思っているけれど、それでもかなり体力を消耗した。とにかくよく歩いた。帰るための駅に辿りついたときには疲労困憊していた。ガス欠、ゼロにしたいと思っていたから目的は果たされた。冷たいお茶を飲みたくなる。缶がいい。手のひらから冷たさがぐっと伝わるから。でも駅の自販機に缶のお茶は無かった(缶コーヒーならあったのだけど)。仕方なくペットボトルの麦茶を買い一気に半分まで飲む。人生で7番目くらいに美味しい麦茶。自販機で飲み物を買うとき、そこには「喉が渇いた、今飲みたい」という真っすぐな欲求があるような気がして、だからみんなもっと自販機で飲み物を買えばいいのにとか思った。

 電車の中でFF10-2の『久遠~光と波の記憶』と『ユウナのバラード』を聴く。この二つがお出かけの帰り道に聴くのにとてもいいのだ。めちゃめちゃいい。西の陽で光る外の世界をぼうっと眺めながら自分が空っぽであることを思う。回復できたかな。できたらいいな。空っぽだけれど充足感でいっぱいいっぱい。今は何も考えられない。

 

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 泳ぐときにわしゃわしゃと動く鴨の足の黄色のうつくしさよ。

 

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 時がとまった時計。

ベティちゃん

 特別なエピソードとして嫌なことがあったわけではないが、かつて通っていた学校の夢を見る時、それは嫌な夢になる。多分、私にとって学校は抑圧の空間だったのだ。概して学校はそういう性質を有するものだと思うけれど。

 その子は名前の知らぬキャラクターに似ていた。名前を調べる。「黒髪 ショート くるくる キャラクター」。日本のアニメキャラクターがごっそりと出てくる。ちがうちがう。海外のキャラクター。多分アメリカ?検索ワードに追加した。ヒットした。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

 ベティちゃんだった。

 その子は今で言う発達障害を持った子だった。小学校六年間で一度も同じクラスにならなかった。算数(数学)が得意だと風の噂で聞いた。その子の名前が素敵、天然パーマで短い黒髪が可愛い子だと思った。

 その子と関わる中で守らなければいけないルールをいくつも課された。実際はそこまで接しにくい子ではなかったのだが(もちろん明確なルールもなかった)とにかく夢の中で私は、幼馴染から「あの子と付き合う時の何箇条」みたいなものをひたすらレクチャーされた(私の幼馴染はベティちゃん(仮)の近所に住んでいて、6年間で彼女と同じクラスになる機会がかなり多かったと聞いた。多分学校側の配慮だろう。だからベティちゃんとの付き合い方に関しては私の幼馴染の方が了解している)。内容に反発することもなく唯々諾々と言われたことを飲み込んでいった。さて、行きますか、というところで夢が終わった。

 

 学校、嫌いだったな。嫌いだった。今だから言うけど。人と一緒にいることが向いていないのか、なんなのか、とにかく苦しい空間だった。へえ、みんな誰かと一緒にいるのが楽しいんだ。不思議。そう思っていた。

 誰かと一緒にいることが楽しいの?そういうものなのかしら。もちろん刺激的なことではあるけれど。どうして私は楽しくないのかしら。人が何を考えているかわからないし、話が合わない気がするし、私の語りたいことは別にあるし。そう、私はいつもドキドキしていたな、教室で。どんな言葉を返せばいいかわからなかったし笑うのも疲れるし楽しそうにするのも疲れるし、色々。

 

 昔々、小説を読む際に、私がいの一番に確認することがあった。それはその登場人物に友だちがいるかどうか、ということだった。一定期間かなり気にしていた。友だちがいないように見えたら嬉しかったし、友だちがいたら「ちぇっ」と心の中で舌打ちした。嫌なやつである。友だちがいない人物を参考にしたかった。その人たちの所作を習いたかった。そういう話。

 今はもう気にしていない。気にしなくてよくなったことに安堵している。息がしやすくなったと思う。

 

 さて、朝起きていちばんでこの文章を書いた。久しぶりに朝マックでも買って誰も座ってないベンチを見つけて食べようかな。でも、お米が食べたいな。

写真

 写真を撮っている。

毎月10枚選んでいる写真も310枚になった。

310 - 透明で不可能性

 撮った写真をネットプリントに出す、というのは以前からやっていたことだけど、直近8か月と印刷できていないものを含めて100枚ほどプリントしてもらうことにする。写真というのはなかなか厚みがあるものだ、ということを、写真をプリントするようになってから知った。

 そこそこの束になった写真一枚いちまい見ていく。裏側に日付とどこで撮ったものかを書いていく。データはあるので撮影日は容易に特定できるけれど、撮影場所のメモは控えていないのであやふやな時はスケジュール帳を見返す。そうはいっても、大概の写真は撮影した場所や状況を覚えていた。

 どうして印刷するのか。馬鹿じゃないか。言われそうだ。誰に?誰かに。私も馬鹿げていると思っている。でも、あれこれ言われる筋合いもないような気がした。

 「時間が経つのは早いね」という言葉が嫌い。そんなこと言いたくない。私はまだ何もできていない。

カフェオレと読書

 朝ごはんを食べると、私はマグカップを取り出し氷をひとつかみ入れる。カフェオレベースをとくとくと注ぎ牛乳で割るとカフェオレの完成だ。

 傍らには読みかけの小説がある。江國香織の『東京タワー』。早ければ今日読み終えるだろう(そして読み終えた)。右手にマグカップ、左手に本を持つ、床にそれぞれ置いてうつぶせになる。まだ寒くはない。大丈夫。そうして私は徐にカフェオレに口をつけ(べたりとした甘さが口の中に広がる)ページを開いて続きを読み始めた。

 珍しいことである。カフェオレを飲み、ごろごろしながら本を読むなんてことは。

 カフェオレを読む。そこまで珍しくない。ごろごろしながら本を読む。これも珍しいことではない。

 だけど、珍しくないことと珍しくないことのかけ合わせは珍しかった。

 今日は珍しく始まった。台風が来ていたからかもしれない。

 

「何がしたい?」

 と、訊いた。なにしろまだ朝の範疇に入る時間なのだ。

「何でも」

 透はこたえた。何でもいい、の何でもではなく、何でもしたい、の何でもだった。

江國香織『東京タワー』p.154)