3

ゴーグルを持っていくのを忘れた。ゴーグルの忘れ物、というのは微妙なところで、泳がなくも、ない。係員の人に借りることだってできるかもしれない。

そして私はどうしたかというと、ビート板を棚から引き抜き、ただひたすらキックの練習をしていた。バタフライ、平泳ぎ、クロールの順に25mずつを延々と泳ぐ。背泳ぎを入れないのは、ゴーグルがないから顔に水がかかるのが嫌だなと思ったのと、ビート板を持ちながら背泳ぎを泳ぐ文化がなかったからだ。

3という数字はいい。バタフライのキックをどんどんどんと泳ぎ、次は平泳ぎでスイスイ泳ぐ。次に出会うのは順番的にクロールで、バタフライではない。3という数字は、じゃんけんからもわかる通り、「あなた」と「私」で世界が閉じられない。だから気が紛れるし飽きが来ない。

三人組というと、人間関係でいえばあんまりいい思い出がないけれど(それは二対一という不均衡な状態に陥りやすく、そのときの理不尽さは筆舌にしがたい)aがいてbがいてcがいて、それらが一方通行の、関係は、一体どういうコミュニケーションになるのだろうと、考えるのが少し楽しかった。

本を汚す

 よく図書館で本を借りる。小さい頃からずっと、誰に教えられたのか私は図書館に行くことを覚え、たくさんの本を読んできたと思う。

 返却期限までに読めないこと、あるいは、本を返却するという行為が億劫で返却期限を超過し、館員さんから電話やメールやはがきが来ることも昔はあった。今は読み切れる冊数しか借りないし、読み切れない本は潔く諦めることも覚えた。人はゆっくりとかもしれないがそれなりに学ぶ生き物らしい。

 そんな付き合いの長い図書館の本を、私は汚してしまった。

 細かい話は割愛するけれど、机の上で漂白剤を使った作業をしていたときにうっかり液をこぼしてしまい、それが借りた本に付着してしまったらしい。中表紙の広い部分が変色してしまった。

 私は、自分が図書館の本を汚してしまった、ということに、端的に書けばすっかり打ちのめされてしまった。吐きそうになった。これを申告せずにしれっと返却ポストに入れることはできそうになかった。罪悪感というのは、こういう感情である。

 気に入った作品だった。気に入ったのでこの人の作品はこれから読んでいこう、なんなら買い集めていこうとさえ思っていた。そういう本を、よりによって私は汚してしまい、以来、私は汚した本だけでなくあらゆる本が読めなくなる(本を読まなくなったのは他にも要因があるとはいえ)。

 幸いにも絶版した本ではなく流通していたので、急いでネットで注文した。本来であれば、おそらく図書館に自己申告して、指示を仰ぐべきなのだけど、あまりの罪悪感に私はすぐに本を買い、私が買った新刊と汚してしまった本を取り替えてもらうことできませんか、と言うつもりだった。

 罪の意識に堪えられないというのはこういうことを指すのだろうな、と思う。難しい。

 館員さんに説明し「あ、じゃあ、こちら(新品)に替えますね~」と言ってもらえてなんとかなった。そして「替えた本(私が汚したやつ)は引き取られます?」とのこと。え。私は図書館の手続き上、汚した本は引き取れないと思っていたので、これはちょっと嬉しい出来事だった。でも、この言葉に甘んじては駄目。もう市場に出回っていない本も図書館にはたくさん収められているのだから。

 そうして私は自分が汚した本を持って帰る。ショックで途中で読むのをやめてしまったから、また読み始めようと思う。

飲み込む

おジャ魔女どれみ」なら、強いて言うなら青色のあいこちゃんが好きだった。

おジャ魔女どれみの杖を幼い私は持っていたはずだ。その中には飴玉大のカラフルな玉が入っていて、その一つを口の中で弄んでいるうちに私はそれを飲み込んだはずだ。驚いて、ああ、自分は死ぬのだなあ、と思った。私の世界の終わりは、まず、おもちゃのビーズ玉を飲み込んだときだろう。

でもこれは偽の記憶かもしれない。その後飲み込んだビーズをどうしたのかは覚えていない。

 

以前にも書いたが、川に架かった橋を渡るとき、拭うことのできない、飛び降りのイメージがある。

それとは別でもう一つ、小さな、それこそ飴玉大の小さな小物を手に取る時、それを飲み込むイメージが付き纏って離れない。強い恐怖でも不安でもないので平気だけれど、常時ピアスをつけたまま(泳ぐときは除く)にしているのは、飲み込むというイメージが沸かないようにする為でもあるのかもしれない。つけたら外したりするのが面倒なのが一番ではあるが。

飲み込めそうな小物は怖い。だからあまり持っていないような気がする。硬貨も机の上に放置していると飲み込みたくなるのでさっさと財布にしまいたい。お釣りは複数枚あれば大丈夫。一枚だけだと危ない。10円玉の色はそもそも飲み込みたくないが、100円玉は飲み込めそうだなと思ったりする。1円玉は飲み込み甲斐がない。

もちろん、これまで硬貨を飲んだことは、ない。

 

3分間だけ

 ここ二週間ほど走れていない。そもそも、意識的に歩く、ということが減っている。つまり、移動の手段としての徒歩、が徒歩の割合の多くを占めるようになっている。

 いつかはまたフルマラソンを走ってみたいと思うので、走る力みたいなものは維持していたい。人並以下の走力だが、私の中の底まで力を落としたくない。

 3分だけ走ることにする。XGのWOKE UPを流している間だけ走る。あとはゆるゆると歩くことになる。そのうち曲の長さが増えていき、曲数が増えていくだろう。ただ、それは今ではない。

 これは以前から気づいていたことだけれど、外で走ったり歩いたりしていると「閃く」ことが多い。「あ、これ実はやりたいと思っていたんだよなー」とか「これ買わないとなー」とか、未来のことを自然と考えられる。多分、脳の仕様としてそういうことがあるのだと思う。哲学の道、なんてものがあるぐらいだから。

 高く望まない。淡い望みを維持することに注力する。

死骸日記

道端で死んでいる鳩を見つけた。これまで見たどの鳩よりも凄惨で、おそらく首元を猫か何かに喰われたのだろう、ピンクの肉が見えた。新鮮な死らしい。

私はその横を通り過ぎて、小声で「うわーうわー」と呟く。すごいものを見てしまった、どきどき、である。

これが虫の死骸なら何も思わないだろうに。鳥類か哺乳類になると私は動揺するらしい。どうしてだろう。血の気配だろうか。虫もまた自身の体液で地面にシミを作るというのに。

この動揺が、本能的なものなのか、それとも後天的な、文化によって培われた何かに起因するのか、私にはよくわからない。

なににせよ、死骸を見た時、死と対峙した時、私は書かざるをえない。それは動揺を鎮める為に。そして、死が未知の、畏れ多いことだからだろう。未知の出来事は気になるものだ。

しばらくはその道を歩くのは避けるだろう。けれど誰かが(何かが)死骸をどこかにやってしまうはずだ。

冷たい水を知っている

MPの話。仮説。たくさん泳いでいたときは泳ぐことでHPは減っていたけれどMPは回復していた説。

疲労というものか。そういう概念があれど科学的に認められているのかは不明。日を跨いで蓄積されている感覚はそこまで強くないので、できれば夜も脳が働くようにしたい。

目を瞑ることも効果的らしい。

ときどき目を閉じて、意識が深く深く沈むようなイメージを描くよう試みる。そこは冷たい水だ。沼ではない、湖で波はほとんど立たない。私は体が冷たい水に浸かっていることを容易に想像できる。日常的に泳いでいる甲斐がある。冷たい水の底に沈む。

さて、こんな感じでしばらく目を瞑ることで、果たして疲れは取れているのか。まだまだ検証の余地がある。

Don't get under my skin

XGの新曲WOKE UPに朝からうきうきしていた。サビのDon't get under my skinはいらいらさせないで、という意味らしい。いいね。いらいらさせるな。

私の肌の下に入ってこないで、というのは面白い表現だ。干渉の匂いを感じる。そういうことであれば、世の中の大概のいらいら事は、私の肌の下にも入ってこない表層的なものであるという気もする。いや、表層的だからこそのいらいらかもしれない。もちろん、ぬるりと心の隙間に滑り込んでくるような、不気味ないらいらのさせ方もあるだろうけれど。

窓を開けた。この時期は窓を開ける甲斐があるというものだ。窓を開けたら風が入り込んでくる。冷たい風だ。よく風の話をしてしまう。気持ち良く、それは変化だから。変化を捉えることが年々難しくなっている。生きれば生きるほど、慣れていく。慣れると私は世界に驚かなくなる。MPが枯渇している。一日もたなくなっている。上限が減っているのか、消費量が増えているのか。後者な気がする。

MPをなんとか増やしたい。上限を増やすか、消費量を抑えるか。さて。