麻婆豆腐定食

 麻婆豆腐定食を注文した。レバニラと迷ったが安牌を選んでしまった。冒険をするべきという気持ちとセーフティに行きたい気持ちが存在する。食べ始めて気がついたけれど、麻婆豆腐は野菜が少ない料理だ。

 ご飯マネジメントをミスした。カレーライスの比率がライス8、ご飯2ぐらいを好むの延長で、麻婆豆腐だけを黙々と食べて、自分なりにご飯と帳尻が合うぐらいに減らしていたのだけれどやりすぎた。ご飯の残量に対して、麻婆豆腐があまりにも少なすぎる。それでもどうにか食べたけれど、自分はけっこう危ない橋を渡ったいるのだと思った。

 その店には色々なポスターが貼ってあった(ビールのとか)が、発達障害の相談会のポスターが貼ってあって目についた。まあ、それ以上もそれ以下もないのだけれど。

 その店に入ることにしたのは、道に面した厨房のドアが開いていて、調理している店主、とその手前の、何か大きなざるに入った、鶏のガラなのか体力の肉の山が見えたからだった。

砂糖を入れるのがめんどう

 最近、コーヒーや紅茶に砂糖を入れるのが面倒で、そのままストレートで飲むことが増えた。それに、デカフェやカフェインレスのものを選ぶようになった。なんとなく、コーヒーを飲むといらいらしている気がして。カフェインと相性が良くないのかもしれない。

 砂糖を入れて甘くしたい。できることならば。けれど適切な甘さに調節するのはむずかしくて、どれぐらいの量を入れればどれぐらいの甘さになるのか、まったくわからない。自分の中で結果が蓄積されない。好みの甘さにならないならならないで癪に触るところがあり、甘すぎるよりはブラックで飲んだ方がいいな、砂糖入れるの面倒になってきた、という思考回路。

 これは…怠惰なのだろうか。あるいは劣化。妥協?

 枯れ木のようになっていく。枯れ木は好きだから上等、なのだけど、大丈夫かな大丈夫かなと思いながら、デカフェのカフェオレをひと口啜る。

鍵閉め

 外に出て、くるっと回る。手持ちの鞄から鍵を取り出し、錠に差し込む。手首をひねって、鍵を閉める。鍵を鞄にしまう。一連の行為に、私は「人間をしている」と感じる。他の動物はよほどのことがない限り鍵を閉めないだろうから。

 人間をしているし、もっと言うと、ちゃんとした人間であるような気がする。それは、家に引きこもっている状態があまり良くない印象を持たれていることも関係していると思う。外に出るということは、引きこもらないということ。それは良い状態。

 引きこもりが悪いことかどうかはさておき、「私」という人間に限って言えば、家に居続けるより外に出た方がいい。なぜなら、流れが生まれる。停滞は私にとってはあまり良くないことだと思っているから。

 最近の鞄はリュックではなく肩掛け鞄が多い。あるいは手で持つタイプの鞄。手首に鞄をひっかけて鍵をその中に放り込む私は、あくまで主観ではあるがなんかかっこよかった。社会的だと感じるし(別に社会的でもなんでもないと思うのだが)頑張って人間をしている。外に出ようとしていて偉い(それがたとえ個人で完結してしまう一人散歩だとしても)。

 日の光は強い。熱も感じる。それでも空気は軽やかで乾いている。秋のお出かけと言った風情だ。何かを美しいと感じるのは、タイミングの問題なんだろうなとも思った。今日は鍵閉めが美しいと思える日だった。

ごみ拾い

 やってみたかったこと、ごみ拾い。

 よく散歩をしている。具体的には、毎日何かしら散歩をしている。散歩というのは、目的を伴わない外出で、たとえば本屋に行くとかスーパーに行くとか、その道中の徒歩移動を散歩とは呼ばない。

 散歩をしているので、道を歩く。そうしていると道に落ちているものに否が応でも気づく。私はごみについて考える。

 たぶん私はポイ捨てをしてない人間なのだけれど、たぶんと言っているのはごみを捨てるという行為は無自覚なものだからだと思っているからで、ポイ捨てをする人は、自分が路上にごみを捨てているという感覚がそんなに無いのではないかな、というのが当方の予想です。私も無自覚にごみを捨てているかもしれない。そういう可能性も込めて「たぶん」。

 とある芸術祭で見た作品の中に、こんなものがあった。作者は街中でガムやら煙草の吸殻やらを拾う。この二つに共通しているのは、そこから捨てた人間のDNAを採取できるということで、作者は拾ったごみからごみの持ち主の身体情報を立ち上げて、3Dで視覚化してしまう。ガムを噛んでいたものがどういう容姿の人間だったのか。はたしてその映像はどこまで正確かはわからないが、その作品を見て以来、ごみを眺めるときの視点がまた一つ加わった。あなたのDNA情報が野ざらしになってますよ。

 どうせ歩くならと、ごみ拾いをすることにした。私の中で特定の条件を満たしたときに限り、だけども。都合よく私はよく歩く人間だったし、ごみ拾いをするに適した道具も持っていた。

 ごみを拾いながら、この行為はどんなふうに見られるだろうかというのを考えていた。真面目な優良市民? そんなものじゃないのに。むしろ遊びみたいなものなのに。どう見られうるかということとその行為をしている者にとっての意味が、かなり乖離している。

 アーモンドチョコの空箱。謎の紙。マスク。メロンソーダのペットボトル(私が飲めないもの)。煙草の吸殻。おお、DNA、DNA、と思いながら拾う。

 掃除というのは岸に寄る波、というイメージを持っている。生きている限り永遠と続く営み。部屋も道も台所の水切りかごも、片付いた状態がずっと続くことはない。汚れて片づけての繰り返しで、そういう性質を持ち込めると味が変わって、散歩がたいへん面白い。

それで合っている

 「動けば風、止まれば空」というフレーズが好きだ。本当「動けば風」なんだよねーということを考えていたら、過去の私が同じように好きだと言っていて、少なくとも2025年の私と2026年の私は地続きであることを感じさせる。

 文章を、綺麗に書こうとし過ぎている。綺麗に書きたいからだ。でもそうなると書きづらいこともあり、自分で検閲しているものもあり、それだと全然たのしく書けない!

 面白いことに、私は「自分の書くものが好き」というところがあって、そういう場合は適用できると思うけれど、書いていればなんでもOKである。いつか、未来の私がそれを読むことができるものなら大丈夫である。もちろんインターネットなど他者が読みうる場に置くのであれば表現をそれなりに考えなければならないが、そこに抵触しないなら、綺麗だろうがなんだろうが、OKである。

 書くこと、どうしていこうかなと考えている。

でかいノート

 でかいノートを、破格の安さで手に入れることができた。幸せである。

 考えていることを書き留めるノートは、やはりでかい方が良くて、個人的にはA5では物足りないと思う。見開き1ページを使うというのも手だが、そうではなく普通に従順に横書きで書こうと思ったら、行の折り返しが多くてテンポが早くなりすぎる。

 罫線に従って黙々と書くスタイルを好むが、使っているペンもインクも途中で替えるし、主語と述語という構成になってないことの方が多い。

 自由に楽に何でも好きなことを書く。ノートがあるから、書いているから生きていけると言っても過言ではない。

あなたのことをおしえて

 私は、泣くことができると思う。

 そう書き出しても、「?」と思われるだろうからもう少し書き足すと、私は他の人に比べて泣くことが得意だと思う。今すぐ泣いてくださいと言われたら、多分想像力を何かしら使って泣くことができると思う。俳優になりたいと思ったことはないけども。

 久々に平日に休みを取った。嘘だ。数週間前にも平日休みがあった。でもそれは自分を回復するのに使ってしまった。家に引きこもった。今回は違う。たくさん歩いた。それが私の好きな状態なわけだし。

 お気に入りの曲のプレイリストは200曲を超えた。1時間の長い散歩のお供に流したとしてもすべてを聴くことはできない。その中に、キタニタツヤの"あなたのことをおしえて"が入っていた。

 この曲はシャドバのテーマソングらしく、YouTubeの広告で散々聴いた。「この曲、なんて曲なのだろう」気になって、調べて、曲名を知って、プレイリストに追加した。

 サビはこんな歌詞で始まる。

だから、

どうか生きて、笑って、泣いて

少しでも多く

 広告で聴いていたときには日常の短い散歩のときにはまったく気がつかなかったのだけれど、こういう歌詞だった。

 私は聴覚的な処理が他のより若干劣位なのか、言葉の意味が浸透するのが遅いときがある。電話もレジも会議も苦手だ。何を言っているのかよくわからない。

 サビの歌詞も今になってわかった。「だから、どうか生きて、笑って、泣いて、少しでも多く」。ふーん、そういう歌詞なんだ。そして、不覚にも、歩いている最中に少し泣いた。泣くのはいい。泣けないより泣けた方がいい。歩いている最中に手の甲で涙を拭っても、人は気にしない。私なら、葬式では絶対泣きたくなくて、代わりに散歩でだったら泣いてもいい。

 たぶん、疲れていたのだろう。疲れていないときなどないのだから。

 祈りの曲ではあるのだけれど他者を縛る曲でもあって、後者の怖さみたいなのもありつつ、でもベースは祈りなんだろうなと思う。

 「どうか生きて笑って泣いて、少しでも多く」というのがいい。少しでも多く。できれば。as much as possible.

 一方通行の、祈りの言葉が心地よい。