刺青

池袋の南側を歩きながら、今のところはまだ若さゆえの瑞々しさが残っている(と思う)右の腕を眺め、私はここに刺青を入れるならどういうデザインにするだろうかと考えている。せっかく入れるなら見える位置に入れないと駄目よね、私は腕のことが好きだから腕に。

植物のデザインがいいな。文字は嫌。

でも刺青入れたらプール入れなくなるかな。それは最悪だ。言っておくと最悪なのは刺青じゃなくてルールの方です。ルールが良い方向に、望んでいる方向に変わるのは難しい。駄目な方面に進むのは憎々しいほどスムーズなのに。

刺青を入れることはないのだろう。軽率に憧れるのも違うのかもしれない。でも、私は今、相棒みたいなものが欲しいのだった。何か、人智を超えた何か、どうか私に力をください、と思っている。具体的かつ解決困難な問題があるわけでもないのに、力が欲しいと願う。だから刺青を入れたいなと思って、それだけである。

頑張りたいこと

 頑張りたいことがあるってとても素敵なことだと思うし、頑張りたいことを頑張っているさまは、それが例え上手くいっていなくても美しいと思う。頑張りたいことがあること、私はとても羨ましい。

 そう思って「何か頑張りたいことあるかしら」と考えていたのだけれど、なかった。

 頑張ることは羨ましいのだけど、一方で「頑張りたいことを頑張るって無理」と思う自分がいる。

 なんというか、頑張るのではなく自然でありたかった。頑張る必要すらない、生きることと密接に絡みついて切り離せない、そういう在り方の方が私にとっては現実的で、だからないものねだりなのかもしれないね、と思う。憧れは憧れのまま、私は私でやっていく他ないのかもしれない。

他人の物語

生きてる人間であれ、想像の人や動物やモノやコトであれ、それを楽しむとき、私は他人の物語を消費している。それは私の物語そのものではない。私の物語を構成するピースになるかもしれないけれど。

vlogでもいいなんでもいい、録音された足音が好きだ。それを聞く時、私は自分の足音を肯定することができる。日常の様々なことが映像として記録され手軽に閲覧できる世界において、人間は、人間の行為を何度も何度もミラーリングする。だから私は掃除をすることが好きになったのだと思う。誰かの掃除の様を見て、そこに美しさを見出したというわけだ。それもまた、他人の物語の消費であり模倣。

それが悪いことなんて言わない。が、あまりに消費がありふれていて、その海に溺れそうな気持ちになる。特に弱っている時なんかは。そもそも境界は曖昧だから仕方がない。

私は私の物語を紡ぐしかなく、他人の物語を生きることはできない。

桜の写真はもう撮らない。月単位で撮った写真をまとめ、それを何年も繰り返していると、もう同じ写真は撮りたくないと思ってしまう。厳密に言えば、同じ写真などは無いはずなのだが。

桜の写真は4,5年前に撮った。だからもう撮らない。

少しだけ散歩をする。家の近くにはいくつか桜の木が植っていて、白い花をこんもりと咲かせた夜の桜は、美しさと同時に不気味さを感じる。今年は今の今まで桜に無感動だった。いや、無感動である振りをしていた。本音を言えば、2週間を待たず散ってしまうだろう桜に寂しさを感じるし、寂しさを通り越して苛立ちさえ抱く。どうして散るのか、と思うし、そんなドラスティックに変わらないで欲しいと思う。劇的な変化は怖い。桜であれ、なんであれ。微々たる変化から得られる刺激でそこそこに楽しく生きられる体になったらしい私にとって、桜が散ることは大きな変化すぎる。

変化を恐れるなかれ。硬直化を避けること。柔らかくありたい。

抑止のための健康習慣

余裕がないと口が悪くなるなあと、最近の私を眺めている。昨日のメモに

ロマンスがありあまる

ざまあみろ←荒んでる

と書いてて、書いた覚えはあるが(そして何に対して「ざまあみろ」と思ったかも覚えているが)「ロマンスがありあまる」との繋がりがわからない。ゲスの極み乙女。「ロマンスがありあまる」から私がイメージした何かと繋がるのだろう、それを忘れてしまった。

翌朝、昨日のメモを読み返しながら私はずっと考えている。駄目だ。何も思い出せない。浮かんでくるのを待つしかない。

と思ったところで、この曲が主題歌だった『ストレイヤーズ・クロニクル』のことを考えてのことだったと思い出す。じゃあ、ストレイヤーズ・クロニクルって書けよ。たぶん映画名が思い出せなかったんだな。

 

未知の、人類を壊滅させるほどの力を持つウイルスを体内に保有する人間が出てくる。その人間が生きているから人類は辛うじて生きながらえていて、云々。生きていることで抑止している。

 

余裕がなくなってくると顕在化してくるあれやこれを再び鎮めるためには、自分が健康でなければならない。それを理性と呼ぶのか? お札で悪きものを封印する感覚である。メンテナンス、掃き掃除、水に流す。「無敵の人」にならないための、仕組み作り。

スコーン!

 自分が落ち込みやすい人間なのか否か。それはさして問題ではないと思う。問題なのは「落ち込んだとき」その瞬間であり、「スコーン!」という言葉、音の響きに違わぬ落ち込みであった。正直なぜ自分がここまで動揺しているのか、自分でも理解ができない。多分いろいろなものが瞬時に視えてしまったのだろう。正しいvisionではない可能性、私の杞憂である可能性は大いにあるのだが。そういえば「スコーン」という菓子があると思う。妙なこだわりで、とうもろこしベースのお菓子はポップコーン以外苦手、というのがあるので、湖池屋のスコーンもあまり食べないスナック菓子だ。余談である。

 やれやれ、これだから他人と関わるのは嫌なのだ、と思ってしまう(直情的だ)。時々、あまりに考えすぎる。私の肉体が許容できないほどに。

 落ち着くまでに、少し時間を要するかもしれない。とはいえ、どこかには着地するだろう。波が立った湖面が鎮まるのを、静かに待つ。

 

 ノートを買う。動揺したその足で、細長い商業ビルのエスカレーターに飛び乗り(ガンガン右側を上っていく人はいなかった、良かった)買おうと目星をつけていたノートは置いてなかったので、それなら類似の横長のノートを買うか(思考を吐き出したかったのだ)と陳列棚を行ったり来たりして、気づいたら手のひらサイズのノートを買っていた。さらば測量野帳。やっぱり、測量野帳にせよRHODIAにせよ、方眼の線の色の強さが使用しているうちに鼻についてくるのだ(出てこないで!となる)。

 スマートフォンとセットにして身軽に持ち歩けるサイズのノートだ。それに紙質がとてもいい。薄くて捲るときにぺらりと音がする。書き進めることが楽しくなる。さっそく書き出していって、じゃあそれで楽になるかと言うとよくわからず、だけどまたひとつ相棒ができた気がして、気分が上向きになる。