ChatGPTに、日常の、なんてことない考えを投げると、するすると回答が返ってきた。ふーん、みたいな感じで7割ぐらいの加減で読んでいると、「そして個人的には」とか言ってきて面白かった。AIに個人はあるの…か。
そして個人的には、知っていることを話したい人より、「相手が何を考えているのか聞きたい人」のほうが、会話相手としては面白いと思います。
AIの内容は私への忖度を十分感じられるもので、それに方針みたいなものも求めてないから、やり取りはこれ以上続かなかった。
ChatGPTに、日常の、なんてことない考えを投げると、するすると回答が返ってきた。ふーん、みたいな感じで7割ぐらいの加減で読んでいると、「そして個人的には」とか言ってきて面白かった。AIに個人はあるの…か。
そして個人的には、知っていることを話したい人より、「相手が何を考えているのか聞きたい人」のほうが、会話相手としては面白いと思います。
AIの内容は私への忖度を十分感じられるもので、それに方針みたいなものも求めてないから、やり取りはこれ以上続かなかった。
夢を見た。2か月間、冬眠というのか昏睡しなければならない夢だった。私だけでなく、あらゆる人々が一定の期間、眠らなければならない。それこそ徴兵制のように、社会から要請されたもの。
夢の中の私は、「2か月も眠るのだから社会的に色々調整が必要じゃないですか(例えば仕事とか)」と思い、リスクを考え(二度と目覚めないかもしれない)、極めつけは意識が落ちる瞬間と自分が眠っている状態が2か月も続くというのが恐ろしいという恐怖心から、二の足を踏んでいた。私以外の人は、するすると眠りに入っていき、眠りから目覚め、再び町に溶け込んでいった。
結局私は昏睡しないまま夢から醒めた。恐ろしい夢だった。眠っているのにそんな夢を見ているのがおかしくて面白い、というのは夢から醒めたから言えることで、眠るというのは怖いことなのだ。体がそうしたいから眠るだけのことで。
幸運なことに、「怖い」と考える意識よりも「疲れたから休みたい」という体の力が強くて、私は毎日すんなりと眠ることができている。眠ることは好きだ、しかし恐ろしい。意識と体の力関係が逆だったなら、睡眠は私を悩ませる種だったに違いない。
ICカードを入れたM5サイズの手帳を改札に当てると、機械が音を立て、開いた。改札を抜け眼前の案内板に目をやると、次の電車は5分後にやってくるようだった。
なぜかは知らないが、ホームにはそこそこの数の人がいた。近くで何かあったのだろうか。あるいはここからどこかに行くのか。天気が悪くなるとわかりきっているこんな日に? しかし、かくいう私も出かけるわけだから、人のことをとやかく言えない。
ショルダーバッグから本を取り出すと読み始めた。村上春樹の『夏帆』。3分の2ぐらいは読めただろうか。少しずつ本を読めるようになってきた。コツは意味を見出さないこと。血液のようにめぐらすこと。
そのうち電車がホームに入ってきた。私はそれを認めると、本を閉じてショルダーバッグの中にしまった。我ながら驚いた。閉じてしまうの? 電車の中で本は読まないの?
私曰く、どうやら読まないらしい。面白かった。本を読んでいいはずなのに、なんなら私は本を読んでいいと思っているのに、本を閉じてしまっている自分がいたから。
変なの、と思いながら電車に乗り込んだ。あとは目的地までスマホを操作していた。
来客があったので、ピザを食べ焼きそばを食べ炒飯を食べハンバーグを食べた一日だった。もちろん少しずつ少しずつ、だ。中でもテイクアウトした炒飯はおいしかった。細かく刻まれたかまぼこが入っていた。
悪い疲れではないはずなのだが、疲れているには疲れていて、だからしばらく中断していたジョギングを再開する。少しだけ走って、何かを剥がす。
疲れており楽しかったからだろうけれど、「すべてがどうでもいい」という気持ちになっている。どうでもいい。すべてがどうでもいい。起こっていることがどうでもいい。これから起こることもどうでもいい。それらについて私は考えたくない。考えたくないけれど考えるだろう。でも考えたことも大した意味がない。そういう気持ち。これをニヒリズムというのだろうか。誰か教えてほしい。
こういうときは早く眠るに限る。朝には虚無が去っている。こういうのは、心底疲弊してしんどいときにはやって来ないで、ある程度満ちているときにこそ訪れるものな気がする。
頭の中は、今のところ誰にも透視できていない。肉体もデバイスの操作も行動も、その気になれば誰かが誰かを監視することができる世界で、頭の中だけはまだ難しい。そのことに安心するというよりは、ここだけは私の楽園であり菜園であるという、侵犯されない場所という気持ちを抱く。見られて困ることはあんまりないのだが(なぜならかなり正直に生きているからだ、そしてそれは日記の効用である)それでも<見られない>ということが肝要である。
インターネットを彷徨っていると、いともたやすく他人の言葉にアクセスできる。本当と嘘が混在している。しかし、吐かれた以上それは一つの言葉である。
言葉をどう処理すればいいのか、見失うことがある。これは私の身に起こったことだろうか、否、私ではない誰かの身に起こったこと。幻想と切り捨てるでもなく、私が体験したかのように錯覚を起こすでもなく、言葉として処理しようと思っている。難しい。
そのゲートを抜けたとき、頭の中で「どうぶつの森」のローン返済のBGMが流れた。「ローン」を返済したぞ。うきうきわくわく。あれとおんなじ。
しんどい一年だった。FF10のラストで「なにをなくしたのかわからないくらい たくさん・・・なくしました」というユウナの言葉を思い出してしまう。きつかった。実際私は何を失くしたのか。気力体力は失くしたと思う。本も読めなくなったし出かけられなくなった。体重が増えた。失われた1年。認めてもいいはずだ。
実のところ、私は「ローンを返済」したのではなく、むしろ負債を増やしたまであるが、まあ、知らない(サカナクションの「いらない」のサビが流れる)。私の問題でもあり、私以外の問題でもあるのだから。私にできることは「返済」することしかなかった。
再び散歩を始めた。生きた心地がする。
好きではないものがたくさんある。酢の物とかアクリルの毛糸とか靴下とかふわふわした食べ物とか。
嫌いなものもたくさんある。かぼちゃとか物を腐らせることとかスーパーで必要以上にビニール袋を取ることとか。
好きなもの、好きではないもの、嫌いなもの。それらを明らかにすることは基本的には面白いことだけど、また一つ、何かが決まってしまった気がして怖さもある。考えるの面白いけれど、考えない方がいいのかもしれない。そういう類のこと。
パピコは好きではないものだった。サクレは好きなものだった。前者をどうして好きではないのか、または、後者がどうして好きなのか、私は説明することができるけど、それは本題ではなくて、セブンイレブンのカフェオレ氷は、パピコlikeな商品でおいしかった。そして私が言いたいのは、好きではないけれどおいしいものってあるよね、ということだ。
不思議。カフェオレ氷も(そしておそらくパピコも)おいしいと思う。おいしいけど、好きではないのだ。なんか「あなたのことは認めてるけど人間としては好きではない」に似てる。
おいしかった。甘さが控えめで、シャーベットとカフェオレ(というかミルク系)というのは性質が違うものだと思ってるのだけど、その違いがちゃんとまとまってて、少しだけねっとりしている?のがミルク感出てて甘さ控えめでおいしい! でも、私のスタイルじゃない。
好きではない好きではない好きではない。そんなことを声高に主張したいのでもなく、その、私は好悪を、なんというか色彩みたいに捉えている? あるいは調味料として捉えている?から考えるの楽しくて、ただ、私の好悪などパピコやサクレやカフェオレ氷の本質というかキラキラみたいなものにはちっとも関係がないというか、素晴らしさとは別にあるのです、ということを言いたい。
カフェオレ氷が素晴らしい一方で、比べて私という存在にはさほど価値がない。