桜の枝と夜の雲

 土が踏み固められた遊歩道に沿う形で桜の木が立ち並んでいる。

 半年近く前は淡いピンクの花が咲き乱れていた道は、これから少しずつスウスウとしていくだろう。葉が一枚、また一枚と散っていき、寒風がどこかに連れ去ってしまう。

 桜の木の根元に枝が落ちていた。直径7cmほど、長さにして45cm。十中八九、桜の枝だ。なんてことない枝だが、私はその枝に魅入られる。とても、とても、枝だ。枝としての存在感がある、丁度いい枝だ。枝モデル選手権があったらきっと優秀賞をもらえる、そういう枝だ。

 立ち止まったままでいるわけにもいかないので私は再び歩き始める。じーっと枝を見つめながら、名残惜しいがお別れだった。

 

 陽が沈むのが早い。外に出た時、ほぼ陽は沈んでいた。濃い紺色の空に灰の雲がぷかぷかと浮かんでいる。それがとても綺麗だったので、私はカメラを取り出すと一枚、また一枚とシャッターを切る。ストロボを焚いたらこの色は撮れないような気がして、ディスプレイの警告を無視してピントがぼやけるのも仕方がない、何枚か写真を撮った。

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 なんてことない他人の言葉で傷つくことってあるのよね、と思った。だから私も、誰かを傷つけているのだろうな、と思った。

沼の底

 私はただ一人、沼の底を歩いていた。

 履き慣れたスニーカーが沼底の砂を捉える感覚が、足を通して肺の方まで伝わってくる。前に出した足にぐっと力を込める。わずかばかり砂に沈み込む。沈み切ったところで爪先で砂を弾く。そうして体を前に押し出す。体が前に運ばれていく。

 息苦しさは感じなかった。ただ、世界を満たす水が不透明でジェルのようだったことが気になった。どろりとしていて冷たい。肌からするすると体の奥底に入り込み心臓をぎゅっと掴む。痛いけれど、気持ちがいい。呼気が泡となり耳の近くを通って浮上していく。上を見上げるとちろちろと青い光が揺らめいていた。泡が光の中に吸い込まれていった。

 この世界で唯一あたたかいのは私。

 私はただ一人、沼の底を歩いていた。

消しゴム

 読んだ本のことを書く為のオレンジ表紙のノートを開く。

 1ページ1冊がルール。相関図でもいいし、感想でもいいし、忘れたくない言葉でもいいし、知らなかったことでもいい、とにかく読んだ本のことを書く為のノートだ。

 ふと思いついたので、ノートに書いた本をリストにしていく。ボールペンで書くかシャーペンで書くか一瞬迷った結果、シャーペンを手に取った。1.と書いて作者名とタイトルを続けて書く。

 ヘッドフォンを外した。扇風機の風切り音と開け放した窓から名の知れぬ虫の音。時折、風でカーテンが揺れる。そして手元のシャープペンでさらさらと文字を書く音。シャープペン独特の、いかにも文字を書いている!という音が好きだ。ボールペンではこうはならない。ぬるっと紙の上を滑るから。

 時々文字を間違える。文字の間違え方にはパターンがあるけれど、多いのが、先行して頭で考えている平仮名を書いてしまうという間違いだ。

 「私は一瞬を愛しています」という文章があった時(今考えた)「私は一瞬を愛し」ぐらいまで書いて、いきなり「す」を書く。私の頭は「一瞬を愛しています」まで一呼吸で言い切ったのに、手が置いついていない感覚。今気がついたけれど、パソコンでタイピングしている時はこうはならない。頭の中の文章と指先のタイムラグが手書きのそれより無いのだろう。

 よく書き間違えるので、そのたびに消しゴムで静かに文字を消していく。今使っている消しゴムの状態は北アルプスの山脈みたいだ。急峻な崖があり、なだらかな稜線があり、ごっそりと削り取られた山肌がある。私は注意深く山々を均していく。私はゼウスで、私の手はゼウスの手なのかもしれない。消しゴムを持つときだけは。山のてっぺんを紙に当て、いきなり崩れることの無いように慎重にかけていく。柔らかな丸みを帯びた山の形にするにはもう少し時間がかかりそうだった。

赤と青

赤と青

 今は赤色と青色が好き。『こうしてあなたたちは時間戦争に負ける』の主人公はレッドでありブルーであった。それも影響しているだろうか? そうかもしれない。でも、この作品を読む前から私は赤色のノートを買っていたし、青い表紙のメモ帳を持っていた。

 赤は動脈で青は静脈のイメージ。冷静と情熱のあいだ。男と女の色。対として考えられがちな色。二律背反する、矛盾したイメージが気に入っている。どちらも持てたらいいなと思って、はっきりとした赤、目の醒めるような青のアイテムを見かけると、つい買いたくなる。

 今日も青のSARASAを買った。好きな文章を書き写すのに使うペンを探していた。おそらく、黒のSARASAの0.5mmがベストなのだけれど(1.0mmはノートに書くには太すぎる)そこをあえて青色にしてみたのだ。赤い表紙のノートに青色のペンで書くなんて。いいじゃない、私しか読まないものなのだから。

 システム手帳は赤色。財布は青色。パスケースは赤色。ルーズリーフ入れは青色。

 赤色と青色が好き。

来客

 人がやってきて5分足らずで早くも「一人になりたい」と思ってしまう。実際、適度に歓談したら用済みだと思って私は引っ込んでしまう。その辺り我慢しないのだ(いい振る舞いだとは思ってない)。誰かと食事をしていても、例えばそれが外食だったら、「あとで私一人でもう一度ここに来よう」なんて考えてしまうのだ。誰かと一緒にいると緊張する。呼吸が浅くなる。いつもより聞こえないし、いつもより香りがない。エネルギーを目の前にいる人の一挙手一投足に集中している分、一人で居るときより鈍麻するのではないかと思う。問題は、人と一緒にいて楽しくない、ということだ。これは致命的な問題だ。誰かと一緒にいるからこそ得られるもの、楽しみがあるのならまだいいのに、鈍る分に見合うだけのものを得られていないような気がするのは、まったくもって悲しいことだ。

その瞬間

 アメリ同時多発テロwikipediaを読んでいた。いちばん有名なのはワールドトレードセンターに旅客機2機が追突した事件だと思うけれど、あの日は他にも2機ハイジャックされ、一機は国防総省本庁舎に、もう一機は墜落したのだった。失われた命があった。

 自分の身に何が起こったのか知る由もなく失われる命も悲しいけれど、閉鎖的な空間で、命を失うかもしれないという絶望と向き合わざるを得なかった人たちの葛藤や苦しみが、私はどうしても気になってしまう。例えばハイジャック。例えば墜落事故。例えば電車脱線事故。例えば遭難。具体的に言えば、あの日ハイジャックされた旅客機に乗っていた人たちは、実行者含め何を考えていたのだろう。ビルに追突する瞬間、テロの実行者たちは何を見ていた?

 

 生活は岸による波皿ゆすぐ手

悪夢より嫌な夢

 訳あって睡眠不足な土曜日だった。細切れのように眠り、朝は五時に起き、昼食を摂ると一気に睡魔が襲ってきたので午後はずっと昼寝をしていた。

 嫌な夢を見た。

 私は公共施設のプールで泳いでた。コースロープは取り外され広くなったプール。コースロープは自分がどこを泳げばいいのか教えてくれる存在でもあるから、それが取り払われ茫洋と広がるプールに不安を覚える。色々な人が泳いでいた。私はみんなより何周も周回遅れとなり、置いてけぼりにされた。

 場所が変わり、かつて通っていた中学校のような建物の中に私はいた。その建物は水で満たされているので少し息苦しいが普通に歩くことができるし、机もプリント類もあるべきところに存在している。ただ、水で満たされている(水に沈んでいるわけではない、あくまで建物の中が水でいっぱいなのだ)。

 校長先生のような偉い人が座る机の前に立ち、私は自分が弁明をしなければならないことを知っていた。肝心の申し開きしなければいけない何かはわからないのに、ただ相手に釈明をする必要があるようだった。

 そこで起きた。起きて真っ先に思ったのは「弁明なんて本当に苦しい作業」ということだった。

ジョグ vol.2

昨日の朝には熱が引いたので、昨日は様子を見ながら散歩、今日は15分程度の短い時間をゆっくりとジョグ。良い時間を過ごしているが、果たしてわたしだけ良い時間を過ごしていいものなのだろうか、つまり、幸せであっていいのだろうかと思わなくもないわけで、不思議というか要領が掴めない。

私が幸せであることと、誰かが幸せでないことは直接的には関係ないと思うが(関係あることもあるのかな)間接的には関係あるのではないか。私は何かしなければならないのでは、ならないのでは、ならないのでは。ならないのでは波が押し寄せてくるのだが、その波に飲まれ溺れることもない。中途半端な状態はそれはそれで苦しいものだ。何も感じなければ、無頓着であれば、無関心であれば苦しみはないだろうし、飲まれたら飲まれたなりに極端に針が振れるわけだから見えてくるものがあるだろう。真ん中を意識的に歩こうとするのは神経を要する。狂えない。それは馬鹿馬鹿しい戯言なのかな。それに私が何を知っているのだというのだ。知らないどこかで常に何かが起こっているというのにジョギングだと。

なんだかんだで毎月どこかしらで走っていて、これはもう走ることを趣味として認定していいのではないか。趣味なのか?どうだろう。趣味とは言えないかも。気晴らし?

紆余曲折あって、おそらく10年くらい走ったり走らなかったりを繰り返している。その過程で様々なものが削ぎ落とされた。キロ何分で走ることができるか。一回でどれくらい走らなければならないか。週何キロ走るか。フォームは。体重の推移は。すべてどうでもよくなった先にあったのは、凪だった。何も悩まないし何も落ち込まない。走ることに関して言えば穏やかで楽しい時間があって、私は走ることに向いているのだなと思った。向いていることを見つけられてよかった。

ヒプノシスマイクのディビジョンのひとつ、Fling PosseのCDを聴きながら走る(星野源は聴くのを忘れてたので寝る前に聴こうと思う)。

何も望まなければ走ることはとても楽しいことだ。ピンクのシューズが的確にアスファルトを捉え私を前に運んでくれる。安定したリズムで。まったく、人間はもっとシンプルなはずなのに、いつからどうしてこんなに複雑で厄介で面倒な生き物になったんだろう。

寿命を縮めようが、老化を促進しようが、贅沢だろうが貧乏だろうが、走り続けられたらいいな。私個人の大切な儀式として、誰かと比較することなく、淡々と。

B5のノート

 ノートをB5にしてから調子が良くなっている、と言ったら、「それは気のせいでしょうが」と思われることは想像に難くない。まあ、たまたまだろう。しかし、事実、ノートをB5にしてから明らかに調子が良くなっている。私なりに考えたところ、ノートを新調した最初の頃はかなり気合いが入っていてしっかりと書こうと思うからでは。気持ちに余裕がなければノートをしっかりと書くことはできないが、ノートをしっかりと書くと気持ちが整うということだと思う。何事も形からと言いますし。あとは字を上手に書けているということも調子が良いということを暗示しています。VIVA☆書写。(☆が登場するのも調子が悪くないことの証左)

 一人でピクニックに行くのが趣味のようになってから、もうずいぶんたつ。きっかけが何だったのかはすでに思いだせないが、あの頃の果歩にとって、それはどうしても必要なことだった。水の中がたとえどんなに美しくても、人間は時折水面に顔をだし、息を継がなくてはならないのだ。(江國香織『ホリー・ガーデン』)

 いい文章だと思う。江國香織の文章を私はたくさん収集する。

 私の文章には大きく分けて2種類あるような気がしていて、それは、特定のものに言及するか、日記的なものか、という分け方だけれど、自分の好みで言えば圧倒的に前者の方が好きだ。できればより好きな文章をたくさん書きたいが、そちらの方がエネルギーを要する気がしている。あるいは心の余裕が。それに自分からアクションを起こさないとなかなか題材が見つからないという事情もある。この文章は、といえば、日記的なものに該当するだろう。連想連想連想。時間があればいくらでも書けそうな。まあ嘘ですけどね。時間もないと書けないですし。日記的な文章はとりとめもなく書く心地よさはあるものの、ふわふわとしていて頼りない感じがする。特定のもの、ピンポイントで書く方に心が振れるのは、標本を作りたいという気持ちがやはり関係しているのだろう。個別具体的な出来事を瞬間的に冷却して閉じ込めてやりたいという欲望。星野源の楽曲的文章。そういえば最近星野源聴いてないな、明日聴こ。

 この場所を終わらせるときはきちんと「終わります」と言って終わらせたいなと思う。自分に何かがあって、そうだな、特に告知もなく2週間くらい投稿が止まればそれは私の死なんだろうな。そう、何も言わず去るということができない気がする。ブログサービスにおいてどうして途中でフェードアウトするのか、意味がわからない。滞る、疎遠になる気持ちはわかるが(私だってやめたことがあるのだし)それなら一言書いてから去ればいいのにって、いつも思う。ずっと更新してないまま放置とかどういうこと?でも「は?ありえないんだけど」と言っておいて自分も同じ轍を踏むなんてこと、人生にして往々にあることですので、私はフラグ建築士かな。とりあえず今日の私の考えは、という前提をつけておこう。自分の気が変わった時が楽しみ。