ジョグ vol.2

昨日の朝には熱が引いたので、昨日は様子を見ながら散歩、今日は15分程度の短い時間をゆっくりとジョグ。良い時間を過ごしているが、果たしてわたしだけ良い時間を過ごしていいものなのだろうか、つまり、幸せであっていいのだろうかと思わなくもないわけで、不思議というか要領が掴めない。

私が幸せであることと、誰かが幸せでないことは直接的には関係ないと思うが(関係あることもあるのかな)間接的には関係あるのではないか。私は何かしなければならないのでは、ならないのでは、ならないのでは。ならないのでは波が押し寄せてくるのだが、その波に飲まれ溺れることもない。中途半端な状態はそれはそれで苦しいものだ。何も感じなければ、無頓着であれば、無関心であれば苦しみはないだろうし、飲まれたら飲まれたなりに極端に針が振れるわけだから見えてくるものがあるだろう。真ん中を意識的に歩こうとするのは神経を要する。狂えない。それは馬鹿馬鹿しい戯言なのかな。それに私が何を知っているのだというのだ。知らないどこかで常に何かが起こっているというのにジョギングだと。

なんだかんだで毎月どこかしらで走っていて、これはもう走ることを趣味として認定していいのではないか。趣味なのか?どうだろう。趣味とは言えないかも。気晴らし?

紆余曲折あって、おそらく10年くらい走ったり走らなかったりを繰り返している。その過程で様々なものが削ぎ落とされた。キロ何分で走ることができるか。一回でどれくらい走らなければならないか。週何キロ走るか。フォームは。体重の推移は。すべてどうでもよくなった先にあったのは、凪だった。何も悩まないし何も落ち込まない。走ることに関して言えば穏やかで楽しい時間があって、私は走ることに向いているのだなと思った。向いていることを見つけられてよかった。

ヒプノシスマイクのディビジョンのひとつ、Fling PosseのCDを聴きながら走る(星野源は聴くのを忘れてたので寝る前に聴こうと思う)。

何も望まなければ走ることはとても楽しいことだ。ピンクのシューズが的確にアスファルトを捉え私を前に運んでくれる。安定したリズムで。まったく、人間はもっとシンプルなはずなのに、いつからどうしてこんなに複雑で厄介で面倒な生き物になったんだろう。

寿命を縮めようが、老化を促進しようが、贅沢だろうが貧乏だろうが、走り続けられたらいいな。私個人の大切な儀式として、誰かと比較することなく、淡々と。