B5のノート

 ノートをB5にしてから調子が良くなっている、と言ったら、「それは気のせいでしょうが」と思われることは想像に難くない。まあ、たまたまだろう。しかし、事実、ノートをB5にしてから明らかに調子が良くなっている。私なりに考えたところ、ノートを新調した最初の頃はかなり気合いが入っていてしっかりと書こうと思うからでは。気持ちに余裕がなければノートをしっかりと書くことはできないが、ノートをしっかりと書くと気持ちが整うということだと思う。何事も形からと言いますし。あとは字を上手に書けているということも調子が良いということを暗示しています。VIVA☆書写。(☆が登場するのも調子が悪くないことの証左)

 一人でピクニックに行くのが趣味のようになってから、もうずいぶんたつ。きっかけが何だったのかはすでに思いだせないが、あの頃の果歩にとって、それはどうしても必要なことだった。水の中がたとえどんなに美しくても、人間は時折水面に顔をだし、息を継がなくてはならないのだ。(江國香織『ホリー・ガーデン』)

 いい文章だと思う。江國香織の文章を私はたくさん収集する。

 私の文章には大きく分けて2種類あるような気がしていて、それは、特定のものに言及するか、日記的なものか、という分け方だけれど、自分の好みで言えば圧倒的に前者の方が好きだ。できればより好きな文章をたくさん書きたいが、そちらの方がエネルギーを要する気がしている。あるいは心の余裕が。それに自分からアクションを起こさないとなかなか題材が見つからないという事情もある。この文章は、といえば、日記的なものに該当するだろう。連想連想連想。時間があればいくらでも書けそうな。まあ嘘ですけどね。時間もないと書けないですし。日記的な文章はとりとめもなく書く心地よさはあるものの、ふわふわとしていて頼りない感じがする。特定のもの、ピンポイントで書く方に心が振れるのは、標本を作りたいという気持ちがやはり関係しているのだろう。個別具体的な出来事を瞬間的に冷却して閉じ込めてやりたいという欲望。星野源の楽曲的文章。そういえば最近星野源聴いてないな、明日聴こ。

 この場所を終わらせるときはきちんと「終わります」と言って終わらせたいなと思う。自分に何かがあって、そうだな、特に告知もなく2週間くらい投稿が止まればそれは私の死なんだろうな。そう、何も言わず去るということができない気がする。ブログサービスにおいてどうして途中でフェードアウトするのか、意味がわからない。滞る、疎遠になる気持ちはわかるが(私だってやめたことがあるのだし)それなら一言書いてから去ればいいのにって、いつも思う。ずっと更新してないまま放置とかどういうこと?でも「は?ありえないんだけど」と言っておいて自分も同じ轍を踏むなんてこと、人生にして往々にあることですので、私はフラグ建築士かな。とりあえず今日の私の考えは、という前提をつけておこう。自分の気が変わった時が楽しみ。