発熱

 発熱である。

 モデルナワクチン2回目を接種し、おおよそ10時間後の状態は以下の通りであった。

自分の体調に眼差しを向ける。腕の痛みあり、体はポカポカしているがおそらく微熱ほど上がってはないと思う、そしていつものことながら食欲旺盛。

ワクチン接種2回目 - 透明で不可能性

 朝を迎えられるか不安だった。眠ったら二度と目を覚まさないなんてことがあるのではないか。そう思ったら眠りに落ちるのも怖くなる。漠然とした不安を抱えながら、そうは言っても寝ないわけにはいかないなと思っていたら体の節々が痛くなってきた。

 接種してから13時間後。深夜に私は目覚める。あまりに体が痛むからだ。インフルエンザに罹ったときのような関節痛と筋肉痛、そして熱。立ち上がって体温計を取ってくるのも億劫に思えるくらいの怠さ。横になっていると臀部や太腿、足首が痛い。体重がかかるところ、布団と接している部位が軋んで痛む。幸い買っておいたアクエリを枕元に置いておいたので、薄暗い室内の中手探りでペットボトルを見つけると、コップに注ぐことなくそのまま口をつけて火照った体にスポドリを流し込んでいく。窓を開け放していたのでそれなりに室内は冷えていたと思うのだが、体温が高くて寒さを感じないし汗もかいていないように思えた。飲んでも飲んでも喉が渇く。そんなことを、1時間ごとに目を覚まして繰り返していたら翌朝になった。

 日中は深夜帯に比べると幾分楽になり、体は痛むものの37℃から38℃を行ったり来たりしていた。午後になってもなかなか下がらないので、家にあったカロナールも飲む。

 別に動けないこともないが動く気力がないので、発熱がある以外何もない一日となってしまった。日頃体調不良であることが稀な分、調子を崩すと弱い。はやく落ち着いてほしいものだが、はたして明日は大丈夫だろうか。

ワクチン接種2回目

 ワクチン接種2回目である。翌日は副反応で熱が出るものだと思い、早々に休みを申請、前日にはアクエリアス2リットルを用意する。冷えピタはあまり使ったことがないので見送り、市販の解熱剤は何を買えばいいのかよくわからないのでやめた。あくまで確率的なものだが「明日熱出ますよ!」とわかっている状態というのも面白い。

 さて、色々とある。つい最近もワクチン接種後に体調が急変し亡くなるというニュースがあって、特に2回目だからというわけでもなく(つまり1回目に接種するときにも同様のことは考えてはいた)「私は死ぬのかしら?」とうっすらぼんやりと思いながら大手町のセンターへと向かう。ちなみにもう少し書くと、ワクチン接種と死亡事例の因果関係を特定するのは難しいということは理解している。朝に緑茶を飲んで、昼に急に体調不良で亡くなった場合、緑茶の成分が死因だとは誰も思わない。しかしコロナワクチンはここ1年で登場したものだし、仕組み自体もまだまだ新しい。緑茶とは歴が違う。そもそも緑茶とワクチンは違う。因果関係を認めたくなるのは、それはそうだろう。

 大袈裟なのだろうか。他の人はどんな風に思っているのだろうか。不安がまったくない人もいるだろう。その逆で不安で押しつぶされそうになりながら接種センターに向かう人もいるだろう。ただ、外面的には多くの人が淡々とワクチンを接種しているように思う。もちろん私もその一人だろう。

 凪いだ海でもその水面下では潮流が渦巻き魚が回遊し海底からは火山ガスが出ていたりするものだ。人もそうなのだと思う。でも、それってずるいなと思う。もっと取り乱してくれてもいいじゃない、見えないとわからないじゃない。私一人狼狽えているようで、なんだかずるい、と思ってしまう。

 私、死ぬのかしら。死ぬこともあるかもしれないな、あるいは何か困ったことが起こるかもしれないな。でもそれらのリスクを引き受けようとしている。そこには素晴らしい理解力があるわけもなく、私が咀嚼できる限りの情報を比べて検討したけど結果的には流れに従って採用されたものに過ぎない。人はいつ死んでもおかしくないわけだし。それが今日なのか明日なのか1年後なのか5年後なのか30年後なのか、その違いだけで。ただ明日も続くかもしれないから続いたとき困らないように私は黙々と生きている。無駄遣いせず筋力も落とさぬよう筋トレをする。なんというか、非常にぼんやりとした、生きる未来と死ぬ未来が混在したような、体の内で揺らめいていた感覚がコロナワクチンによって浮き彫りになる。

 

 相変わらず自衛隊の大規模接種センターは見事なベルトコンベア方式で、1回目より人が少なく、さらさらと私は流されていった。前回、アレルギーのことを予診表に書かなかったら問診の際に「次回は書いてくださいね(圧」と言われてしまったので、2回目は正直に書くと接種後の待機時間が30分に伸びた。幼少期以来特に反応もなく、むしろ好きなものだからこれまでたくさん食べてきて、書かなくても平気だろと思っていたけど、既往歴はきちんと申告した方が良いのだなと反省した。

 医師あるいは看護師さんによる問診でのこと。私の隣の机では女性が質問を畳み掛けていた。ロットは大丈夫ですか。この会場で打つワクチンに問題ありませんか。質問内容から察するに、異物混入が発覚した事件を受けてのことだろう。淡々と丁寧に医療従事者の方は答えていく。ともなると、今この瞬間、質問に機械的に回答していく私はずるい人で、向こうのテーブルで詰問している女性はある種正しい姿なのだろうと思った。みんな不安なのか、やっぱり。

 

 帰りにマックのポテトフライLとカフェオレを買って帰る。帰宅後、カフェオレをずーずーと飲みながら「美味しいカフェオレが飲みてーなー」なんてことを考え(マックのカフェオレが美味しくないとは思いませんよ)いまいち集中できないままゴロゴロしていたらこんな時間になってしまった。

 自分の体調に眼差しを向ける。腕の痛みあり、体はポカポカしているがおそらく微熱ほど上がってはないと思う、そしていつものことながら食欲旺盛。

 さて、無事に朝日を浴びれるといいけど。

 新型コロナウイルスに感染し自宅療養(あるいは入院治療)でかなりしんどい状態の人にとっては「無事に朝日を浴びれるといいけれど」が切実な願いであるのかもしれない。そのことに思いを馳せ、泣きそうになる。新型コロナウイルスだけでなく、日々病と対峙している人の日常にもほんの少しだけ触れたような気がした。

 考えたければまた明日考えよう。今日のところはおしまい。

もんじゃ焼き

 ベビースターが見つからない。

 22時。フロアを私はぐるぐるぐるぐると歩き回る。目が回ってくる。目がまた悪くなったので、文字情報を拾う量は以前より減ったけれど、それにしてもこの店は物が多く、売り場が分かりづらいのが厄介だ。

 ベビースターの属性を考える。ベビースターはお菓子だ。飴には属さない。駄菓子でもない。チョコでも、煎餅でもない。スナック菓子?スナック菓子だろうけど、ポテトチップスでもなければとんがりコーンでもない。ベビースターは、ベビースターだ。

 結局10分ほどお菓子売り場を回遊して、柱に掛けられているのを見つけた。小袋が5つほどつながったタイプの商品。堅あげポテトやサッポロポテトの小袋も同様に掛けられていた。そこで私は気づく。私、ベビースターを買ったことが、ないのだ。

 翌日、私はホットプレートを取り出して卓上に置く。延長コードで電源をつなぐと、加熱する前に素材の準備を始める。

 きゃべつを一枚一枚をめくりとる。重ねた葉をざくざくと細切りに切っていき、90°回転させて今度は粗みじん切りにする。薄力粉、水、ソース、白だし。入れてシャシャシャとかき混ぜる。そこに刻んだきゃべつと揚げ玉を入れてさらに混ぜる。これでタネは完成。ああ、あとはベビースターを一袋分入れることも忘れずに。

 加熱したホットプレートに具だけ入れてじゅうじゅうと焼き始める。開け放した窓から風が流れてきて、風下にいる私は思いっきり煙をくらう。具材がしなしなとなってきたところで、ドーナツ状に土手を作り、穴の部分に汁を注いでいく。あとは適当に。どろっとしたらもう完成だ。シリコンの小さなへらを取り出すと、私はちびちびと食べ始める。それは午前10時のことだった。

 口の中、少し火傷した。

 もんじゃを食べながら無課金でガチャを引く。どんどん引く。自分の運を試す。どんどん増えていくカード。様々なキャラクターを見ながら考え事をする。

 男性、女性という属性を使うことに抵抗感がある。が、致し方なく用いて表現するならば、私は男に憧れ、また、女に憧れない女なんだろうなと思う。でも生まれ直すなら女がいいな。絶対女がいい。私、女キャラ(という言葉は使いたくないんだけど)メインのスマホゲームとかやらないもんね。可愛いなあとは思うのだけど私は別に欲しくないのね。一方でたくさんの男たちが登場するゲームは遊ぶ。だって欲しいから。

 『ムヒョとロージーの魔法律相談事務所』では、ソフィーという女の子の悪霊が登場する。彼女は生きている人間の顔を剥ぐことで剥いだ人間に成り代わることができるのだけれど、もし彼女のような力があれば、私はその力を行使しただろうか。他人が羨ましい。私以外のありとあらゆる人間になってみたい。だから顔を剥いだだろうか。他人に成り代わる為に。私で感じられることには限界があるもの。私であることが私の限界なのだもの。でもきっと、力は使わなかったと思う。隣の家の芝は青い。私が持っていないものは、私が持っていないからこそ美しい。そうやって自分をなだめすかして、私は伸ばしかけた手を下ろし、拳をぎゅっと握る。理屈がわかっているから平気だけれど、時々耐えられないかもしれないと思う夜があって、そういう時は困る。だからもんじゃを食べる。憂さ晴らしじゃあ。

シシャモとホッケ

 これまで使っていた日記帳を使い切ってまた新しいノートを開く。今回のノートは、実は数年前に既に買っていて、何度も書いてはページを破って、というのを繰り返していたもの。この際、本腰を入れて使い切ろうと手に取ったのだった。今まではB6サイズを使っていたけれど、今回はB5。書く頻度が上がったので、よりたくさん書くことのできるB5サイズをこれからは使っていくかもしれない。B6の方がコンパクトでちょっとしたときに書きやすいのだけれど。ああ、小さい鞄で出かけることがあるならそれは困るなあ…少し考えます(基本的に日記帳はいつも持ち歩いているので)。

 書いたものは私にとって足跡のようなものだと思う。一歩、それ自体をじっくりと見つめながら歩くことはないけれど、私は確かに歩いてきたし、今も歩いている。自分の進む方向が正しいのか、歩いてきた道のりはどういうものだったのか、考えることはあれど、どうしてその方角に進もうと思ったのかについては考えない。私のことでなければ考えるだろうが(例えば一国の歴史)自己分析はほどほどにしたい。私以外に目を向けたほうがよほど楽しいのだから。

 夢もなければ目標もない。そういう私にとって、ノートを使い切るということは人生の一つの区切りみたいなものになるのではないか。そんなことを考えている。大体数か月という短いスパンで(一冊のノートを日記として使い切るのに1年はまずかからない)私の生は区切られていく。

 ノートに何かを書くということを始めたのは中学生からだが、当初はある意味<復讐的な>性質を帯びていたし、私なりの<抵抗>でもあった。夢も希望もない、つまらない日常へのカウンター。そして今もなお根底にあるものは変わらないのだろう。今の私にとっても人生は退屈で、そして今の私にも夢や希望はない。

 ただ、つまらないからといってそのまま漫然と過ごすわけにもいかなかった。夢や希望がなくても時は流れていく。そういう状況でどうサバイブするのかといったら、私にはとにかく日記めいたものを書くしかなかったのだ。書けばコンテンツになる。書けば他人になる。書けば標本になる。そうして、数日書かなかったり、一日ずっと何かを書いていたりするようになったりを経て、今の私がある。

 使い切ったノートの最後のページにこんなことを書いた。

ノート一冊、私はまた生きた、ということ。

 そう。本当にそうだった。読み返すことはほとんどない。今まで歩いてきた道のりを振り返って見つめることがないように。だけれど、放り投げられたノートが段ボールに溜まっていく光景は、そのまま私が歩いてきた道のりになる。また一冊ノートを使い終えることができたことを嬉しく思う。表紙をめくってまた新しく白紙の紙に書けることを喜ばしく思う。そんな風に私は生きている。

 昨年からドリフターズ・リストを新しく作成し、継ぎ足し継ぎ足しで書き留めている。バケットリストのようなものだが詳しくは『太陽のパスタ、豆のスープ』ご参照。

 もれなく前のノートから新しいノートに書き写していく。面倒な作業だし、リストが長くなればなるほど手書きで書き写すのは大変なのだが、書き写して改めてその内容にハッとさせられた。普段定期的に内容を確認しているというのに。ただ見るだけではなく自分の手できちんと書くというのはそれなりに効果があることなのだなと思った。

 できたこともあるし、できていないこともある。31番目は「北海道のシシャモとホッケ」と書いている。北海道の居酒屋とかで新鮮なシシャモとホッケを食べられたらいいなと思って書いたものだ。いつ叶うのやら。もちろん、ドリフターズ・リストは一つの指針であって必ずしも頑張って叶えるものではないのだが。

 シシャモとホッケのようなものをあとどれくらい見つけられるか。それをどれだけ叶えられるだろうか。

 でも。私は考え直す。

 別に叶えなくてもいい。ただ困った時、途方に暮れたときの道しるべになるものがあれば。空白に北海道でも奈良でも兵庫でも行きたい場所があるだけで、それが足を前に出す理由になる。

カルピスウォーター

 ぷしゅっとロング缶のプルタブを開ける。短めの爪であってもプルタブを開けるのは少してこずる。定規でも持ってきて強引に開けようかなと思ったけれど、どうにか力を入れられるぐらい持ち上げたところで一気に手前に引く。冷蔵庫でキンキンに冷やした58円のカルピスウォーター。べとりとした甘さが口の中に広がる。23時32分に飲むのみものではない。うっすらとした背徳感が気持ちいい。

クッキー

 ホットケーキミックスが家に大量にあるので、それを消費するべくクッキーを作ることにした。

 クッキーは好きだ。家で作る、サクサクとほろほろの間にあるクッキーがいい。クッキーは真面目に作ろうと思って作るものじゃない気がしてくる。サクサクとかほろほろとかしっとりとか、何かを志向するものではないのだ。つまり無欲無心。もっと曖昧で不安定で脆い、人間のような状態のものが私は好きだなあ。クッキングシートを敷いて一枚一枚型抜きを使ってできた生地を並べていく。焼き上がり時間も適当。170℃で14分くらい。出来上がったばかりのクッキーは当然高温で柔らかい。冷ます過程で堅くなっていく。粗熱を取ったクッキーを一つ、また一つと口に運んでいく。塩気と甘みが良い塩梅だった。

 真面目かどうかでいえば、もんじゃが食べたい。家でもんじゃは作れるかしら?作れそうだ。時間のあるときに作ろうと思う。もんじゃもまた挟間にいる食べ物。そういうところが好き。おやつなのか食事なのか、どちらでもありうるもんじゃ焼き。ちびちびともんじゃをつつきながら片手で文庫本を読む休日を送ろう。明日は金曜日?それなら明後日か、明々後日か。

 そう、文庫本。先日『シェル・コレクター』を読み終えることができたので、少しずつ少しずつ本を読む生活にしたいところだけれど、どうなんでしょう。問いかけは宙に漂ったまま返ってこない。

 開け放した窓からしとしとと雨音が聞こえてきた。傘を買いたい。可愛い傘を買おうと思っているのにずっと買うことができていないこと、雨雲の到来で思い出す。透明なビニール傘がいい。可愛い柄がプリントされた傘を。

 良い悲しさと悪い悲しさがあって、良い悲しさというのはゆとりがある。独特の余白がある。埋めたいのに埋められない空白があって、ウイスキーの芳香のような飴色をしている。悪い悲しさというのはもっと黒みがかっていて余裕がない。艶やかな深緑色をしていて苔の色に似ている。そして必ず未来を悲観する。今日は良い悲しさなので悪くない感じだ。

 さっさと寝よう。私は疲れている。今考えても、新しいものは何も浮かばないだろう。

  むせかえるとろみを帯びた秋霖