手繋ぎ

 手を繋ぎたいと思うものなのだろうか。これを読んでいるあなた、思いますか。

 

 A駅からB駅まで1時間ほど歩いた。本当は帰りに喫茶店に寄りたかったのだけれど、体は疲れていたようで、駅とは反対の方向へ足が勝手に動いたのだ。

 気に入っている道を歩いていると、私の前を、私より、そうだな、プラス5歳から10歳の男性と女性が仲睦まじく手を繋ぎ談笑しながら歩いていた。率直に「いい光景だな」と思った。私は彼らを追い越して、ガソリンスタンドの角で止まる。信号が青信号に変わるのをガソリンスタンドのぎらぎらした照明を浴びながら待つ。ガソリン特有の匂いが(私はこの匂いが嫌いじゃない)鼻をつく。振り向くと、追い越した男性と女性はどこかに消えていた。

 なおも歩きながら考える。考えてみると、昔から私は手を繋ぎたいという情動に乏しいようだった。手を繋ぎたくないという拒否感もなかったが、繋ぎたいとも思わなかった。言うなれば、手を繋ぐという行為に意味づけがされていなかった。

 そして、私の外には既に意味がある。手を繋ぐという行為には意味がある。親愛の情、友愛の情、恋慕の情を示す行動(と思っているけどどうなんでしょう)。私の中で意味が生まれる前に、その行動には意味があって、なんというか「遅れた!」という感覚が自分の中ですごくある。既に存在する意味は難攻不落の鉄壁で、今更それ更新することなんてできなさそうで。とはいえ、外にある意味を自分の中で落とし込めるかというとそうでもなく、結局「私は手を繋ぎたいわけじゃないんだよな」というただの気持ちに着地する。

 だから、手を繋ぐ人を見て「いいな」と思う。私は手を繋ごうと思わないから。私はこれまであまりに手を繋ぐ人を見てきた。見すぎた。自分で考えるよりも前に意味が強化されすぎた。なので私はもう、自分が誰かと手を繋ぎたいのか繋ぎたくないのか、よくわからなくなっている。ちなみに思うけど、歩いているときに手を繋ぐと片手が塞がる。片手が使えないとスマホも操作しにくいし(片手だと私にとってスマホは大きい)メモもできないし(歩きながらときどきメモをとる)写真も撮れない(写真もときどき撮る)気がする。気楽ではなさそう。