責任の評価

つまりこの状態は言ってみれば「キレてる」なのかもしれない。

私、キレています。何にキレているかというと、端的に言えば「自分が負う責任への評価が甘い人間にキレている」のだが、まあ、思考が加速して仕方がない。私、ウキウキである。

以下は私が冷静にキレ散らかしてる文章になる。

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キレるまではいかないが、こういうケースはままある。というより、私がキレる唯一のポイントと言っても過言ではないかもしれない。

もっとわかりやすく書くと「私たちはミスを犯した。オメーのそれに対する自己評価はそんな程度なのか? もうちょっと重めに評価しろや」である。そのミスのカバーに入るのは私なのだが???(もちろん、私の責任範囲としてそのミスを防ぐポイントを逃したのも事実なので、私にも責任はある)もうちょっと申し訳なさそうにしてもらわないと、私の溜飲が下がらないのだが??? というのもある。これは、私が狭量なだけなのだろうか。そうなのかも。

仕事はくだらない。こんなことをして何の意味があるのかわからない。私は自分の仕事にやりがいを抱いていないし、価値も認めていない。でも、私は私なりに頑張ることにしていて、それは、その場に留まり続ける選択をしたことに対する責任と思っているからだ(給料をもらってるというのもあるかもしれないが)。だから、もうちょっと頑張ってほしいのよな。いや、頑張ってはいるのよな、ただ頑張っているレイヤーが違うし、他にもレイヤーがあることをわかっていない(自分も昔はそうだったかもしれない)。

私は、大事にならないミスやアクシデントは嫌いではなく、大事でないミスなら原因分析も嬉々としてやる。それは、またひとつ、底が抜けたバケツの穴を見つけられたことに対する喜びだし、事態の好転に対する祝福である。私はまたひとつ見地を得た。結構。素晴らしいことではないか。

過大に自分の責任を評価するのでも、過小に評価するのでもなく、適切に自然体に責任を引き受けようとする人は人間として魅力的だと思うし、できるなら私はそうありたい。だから、いつもいつも責任に対する評価は欠かさない。私が負うべき範囲はどこか。その範囲内でするべき最善の行動は何か。

評価が甘いのはまだ良い。本当にイライラしてしまうのは、そもそも「責任に対する評価」という視点すらない人なのだと思う、と書いたところでだいぶ落ち着いたので、今日は甘い飲み物でも飲んでぐっすり眠ろうと思う。やれやれ。キレるのは面白いけど疲れるのよね。