ヤマメ

 川をみに行く。

 ひょんなことからヤマメ(展示されているやつ)もみることとなる。

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 スーパーや市場に並べられた魚が好きなのだけれど、水族館ももちろん好き。

 

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 めっちゃ可愛い。

 

 口元(人間の唇にあたる部分?)がぼてっとしているのもIt's so cuteだし、流線形で薄っぺらい体もその体長の丁度よさも好き。イワナよりヤマメの方が好きだし、鮎よりヤマメの方が好き。

 魚のシルエットはとても合理的なのだと思う。その合理性について私は知識を持たないけれど、魚は特に形が綺麗で私はそれを美しいと感じている。

 説明文には「きわめて清澄な川に住む」とか「夏場でも水温16℃以下の川」とかそういうことが書いてあって、凛とした冷たい水で悠々と泳いでいるヤマメの姿がパッと浮かんだわけだけども、wikipediaを読めば「生息上限温度は24℃で、24℃で餌を食べなくなり26℃で死亡する」とあって、途端に怖くなった。

 24℃で餌を食べられなくなるヤマメちゃん。26℃で息絶えるヤマメちゃん。

 ヤマメだけでなく魚には生きるのに適度な水温があるらしく、種類によってそれは異なるらしいからヤマメだけが特別なわけではないけれども、水が温くなって酸欠になり口がパクパクし始め酸素を取り込めなくなりパタリと息絶え急流にもまれながら流されていくのだろうか。あるいはその前に動物や鳥に捕食されるか。

 人間だって大して変わらないと思うのであった。なんとなく。だから私は適切な水温を求め川を見に来たのだった。

 

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挟間

 部屋がネイビーの色をしていた。

 

 誰かと一緒に本屋の中を歩いていた。見知った本屋だから私はその人を置いていく勢いでズンズンと歩く。私この本屋に関しては「プロ」だから。しかし手に取りたかった本は無かった。探しても探しても無かった。それどころか、本棚は歯が抜かれたような状態で、全体的に品薄だった。こんなことってあるんですねえ、とその人と笑い合った。

 「ちょっと待ってて」と誰かに言った。私、今着ている服が気に入らないの。15分ぐらいで戻れるから、だから待ってて、と言った。その人はやさしく笑った。安心できる表情だった。表情一つで自分が許されるような、そういう感覚を味わえるのだなあと嬉しくなった。祝福されているような気がして、すごく幸せだと思った。でも、この人は誰なのだろう。

 

 家に戻る道で、駄菓子屋のような居酒屋のような魚屋のようなお店の軒下で、中学生四人組(私がかつて通っていた学校の制服を着ている)がピータンを食べていた。私、ピータンを食べたことがない。気になる!と思った。

 まるで泥に足をとられたかのように、体に鉛が詰まっているかのように、走っても走っても体が前に進めなかった。歩いたほうが早かった。どうして私はこんなに走るのが遅いのだろう。25mを息継ぎなしで泳ぎ(多分それはさほど苦しくない)ターンして35mくらいまで息なしで泳いだときの苦しさに似ている。自分の体が思うがままにならない。どうしてどうして、という言葉がからだを駆け巡ってつらい。私は、泥だ。

 

 今何時だっけ。アラームが鳴らなかった。今日は何をしなければならない?どこにいかなければならない?そもそも私は誰?昨日というものがあるならば、何をしていたかわからないな。そもそもここはどこだ。一面ネイビー色。カーテンからうっすらとこぼれる光。それは夜ではない証拠。そこまではわかるけれど。遅刻すると思った。何に?何にだろう。

 そこから一気に意識は覚醒していく。今と過去の接続がスムーズに行われ、私に電気が通る。今日は休日。昨日は労働。あなた、寝落ちしていたのよ?疲れていたのね。夢の名残が薄れていく。現実が鮮明になっていく。可能性より不可能性が高まっていく。

 

 午前5時半のことだった。私は挟間にいて、そこから抜け出すことができたので、今これを書いている。

 

入院

 帰り道に歩いていると病院に出会った。

 既に診療時間は終わっていて、入り口の蛍光灯だけが煌々と光っていた。

 それなりに大きな病院で建物も大きい。目線を上に向けられると、等間隔に並べられた窓の多くはカーテンが閉められており、隙間から室内の灯りがぼんやりと滲んでいた。

 幼少期に入院したことがあり、その時のことを思い出す。といっても記憶から引き出せるのは、味がしない病院食の粥と、それに振りかけるごま塩と、抵抗したらしく術後は足に点滴をする羽目になりベッドに張り付け状態だったことぐらいだ。腕にしてもらえれば、点滴を吊るした移動式ポールを引き連れて病院を歩き回れただろうに。

 病院食が不味かった記憶は無くて、ただ薄味だった。売店で買ったのだろうか、私だけのごま塩の瓶を持てたことが嬉しくて、以来、ごま塩ふりかけが好きだ。

 窓一つひとつ、部屋にはベッドが置かれその上で誰かが眠っているのだろうか。

 歩き始めながら私は想像する。

 人にもよるだろうけれど、入院というのはとても孤独で、そして不安なものだ。閉め切られたカーテンは、外界からの孤絶を意味しているようで、少しだけ、気落ちする。私が落ち込むのは話がちがうけどね。

 誰かが何かから回復しようとしている。病院というのはそういうところだろう。ぼんやりとした街に比べればよほど生の気配。ペタペタとスリッパの乾いた音が鳴る廊下のイメージが目の前に広がる。

 と、ププーと大きなクラクション音が世界を切り裂き、思わず舌打ちをしてしまった。まったく、うるさいなあ。

コインパーキング

 更地だったところがいつの間にかコインパーキングになっていた。

 数週間前に駐車場らしきものができ始めたと思ったらみるみるうちに白のラインやら駐車スペースに敷かれた機械やら(これが跳ね上がることで清算しないと車が出せないようになる)コインパーキングなる空間が作られていく。私がその場所を通りかかるときは誰もおらず、妖精さんがこっそりと組み立てているとでもいうような不思議な光景だった。そして四月の最初の日から稼働となったのだろう、三月最終日までは駐車スペースに一つひとつ赤色のカラーコーンが置かれていたけれど、それも無くなってしまった。一体だれがカラーコーンを持っていったのだろう。妖精さんに違いないな。結局お会いすること叶わず。残念であった。

 見たところ、まだ誰も駐車する人はいなくて、「空」の文字が蛍光グリーンでピカリと光っていた。「満」になる日は来るのかしらと思いながら、私は家路を急ぐ。

ハートを食べるか食べないか考える貝

 仕事でチャットを利用している。

 テキストで、表現が冗長的になりやすく、言いたいことがたくさんある私は、チャットが少し苦手。メールも苦手。そもそもコミュニケーションが苦手なんだろうという話はさておき(もうそれほど悲観していない)Thumbs up!なスタンプを多用している。いいね!了解しました!確認します!全部「Thumbs up!」だ。スタンプには他にも色々あって、驚いた顔や悲しい顔もあれば、ニコニコマークもあるのだけれど、ハートマークだけは使えないことにふと気づいてしまった。というか気づかされてしまった。

 

 親切な行動をする。

 仕事仲間からハートマークが返ってくる。

 鳥肌がぞわっとする。

 試合終了。

 

 「ハートマークを投げて寄こした、すなわちそれはセクハラです」そんなことを言うつもりはなくて、だってセクハラって普通は一つの行動だけではなく、たくさんの仕草やら行動で以て総合的に「あの人はセクハラをした」と判断されるものだと思っているから(と言うと語弊があるな。つまり、声色とか表情とか仕草とか、文脈とか、色々付随するものがあってセクハラになる、と思う)別に業務中にハートマークを寄こされるのは構わないのだけれど(「リマインドしてくれてありがとう!」とかその程度の意味だって知ってる)他意がないことくらい知っていて過敏に反応する方がなんだか馬鹿みたいだなと思うけれど、まあそれでも、ハートマークかあ…と私は少し気落ちする。

 あ、もちろん、性別関係なくセクハラだと思った側の意見をまずは尊重すべきで、「これセクハラかも…」と思うことは何も悪いことじゃないよ!私はそう思っている。

 なんというか、これはセクハラの問題ではないのだ。ぜんぜん違うのだ。むしろ言葉の問題なのだ。記号の問題なのだ。あなたはどういう言葉をどの状況でどのように使いますか?の問題なのだ。どちらかと言えば「あんた馬鹿あ!?」ってあなたは対人に直接言い放つことはできますかできませんか?に似ているのだ。たぶん。

 

 で、ハートマークだ。

 

 仕事だろうが友人関係だろうが、多分私はハートマークを使わないのだ。LINEでも使わないのだ。それはどうしてなのだろう。

 まず赤とかピンク色をしたハートは苦手なのだ。大概ハートは赤かピンク色をしている。黄色とか緑とかのハートならまだマシだけれど、赤とかピンクではないハートに何の意味がある?と思ってしまう。

 赤やピンクのハートはLIKEでありLOVEである。私はぬ!?と反応する。

 

 眼差しは怖い。見られること、聞かれること、想像されること。他人の何もかもが本来なら恐怖の対象で、その恐怖は現状抑えられるレベルだから問題はないけれど、ハートマークとかはその恐怖に近い場所にいるアイコンだ。

 私が他人の思考を制御することはできない。ここからは駄目です!と白いシーツで以て覆い隠すことはできない。わかっていて普段は意識しないようにしているからこそ私はこうして文章を書くことができているが、時々ほんとうに駄目な時は気が狂いそうになる。私は定期的に人がいない場所へ行きたくなるのは、そういう恐怖が少しは関係している。

 

 シリアスすぎる。

 わかってる。過剰に反応し過ぎだ。肯定的に受け止めればいいのに。そういう自罰的思考はあんまり意味がなかったなと思って、今日も私は朗らかに生きている。

 

 悲しいのは、私の周囲半径10mくらいが地雷原のように思えること。もっと鈍感である方が自分も他人も幸せなのだろう。

 

 「私このパイ嫌いなのよね」

 『魔女の宅急便』で祖母のお手製ニシンのパイを切って捨てたあの女の子に、私はなりたくない(と、同時にあの女の子の気持ちもわかる。私は納豆が大好物というわけではなかったもの)。ニシンのパイが美味しいと思える瞬間がやってくるかもしれないし、そのときまでおばあさんにはニシンのパイを作ってもらいたいもの。

 いつかはあなたのハートマークを好意的に、あるいは無理なく自然にそういうものだと、感謝の、労いのシンボルなのだと、受け止められる日が来るかもしれない(来ないかもしれない)その可能性を私の方から捨てたくはないのだ。

 

 だから、「ハートマーク、苦手なんですよね」とは言わない(この場では言っているが)。

 

 何かを表明することは、すなわち何かが確定されることじゃない。そのことをわかってほしいなと思いながら、言葉を放つたびに私は画定されていくし、私は誰かを画定していく。海の底で物言わぬ貝になりたい。なれない。

手書き

 「デジタルで書くのが面倒」となることがある。

 最近は紙に書いてこちらにも書くということをやっている。だいぶ手間だ。そしてアナログで書いていたことは、デジタルでは大体書かないからよくわからない状態になる。つまり、使うツールによって書くことは変わるし、多分同じことは二度と書けない。この文章も然り。

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 調子的には10段階のうち(1に近づけば近づくほど調子が悪く、10に近づけば調子が良いということ)多分4くらいで、3に近づきつつある。ぶくぶくと泡のように湧くアイデアなのか考えごとなのかは、制御できなければただのストレスで、頭が重たい。動悸がしてくる。ここで清冽な川を思い浮かべることとする。幾分かは落ち着くだろう。ほら、さっそく「清冽」使えた。

踊ったものだから

 YUKIの新曲『Baby, it's you』を聴く。

 この曲は「賛歌」だと思う。人間賛歌だと言うべきなのだろうけれど、言ってやらない。私は「人間賛歌」という言葉が好きではないから。ただ賛歌だと言う。るんるん

 橋を渡る。黒々とした水が眼下に広がっている。等間隔に並ぶ街灯。車のヘッドライト。逆光で真っ黒な男女のシルエット。私はYUKIの歌声に合わせてくるっと一回転する。ふわりとしたドレスなんて着たことがないけれど、スカートの裾が膨らむように軽やかなステップであり、足さばき。月。画用紙の上に鉛筆でのせた黄。それを指で思いっきりこすったような、淡い色の光。波、風、夜、桜、エンジン音、標識。ビルにコンビニコーヒー。生の躍動。

 エネルギー切れである。踊ったものだから今日は早く眠りたい。