縁(よすが)

 陶器のマグカップを買う。かねてから焼き物が欲しかったのだ。

 いくつものギャラリーに入っては、棚に整然と並べられた陶器と向き合う時間。それは、書店の本棚の前に立ち、たくさんの背表紙を見つめる時間と同じだなと思った。深く深く潜っていく感覚。

 あるマグカップを見つける。灰と緑と青が混ざった絶妙な色合い。滑らかな肌触り。取っ手の部分に指をかけたときの収まりの良さ。見た目で抱く印象よりやや軽め。

 寝る前の一杯、あるいは起きがけに、このマグで何かを飲む自分の姿を思い浮かべることができたとき、マグカップにしては幾分値が張ることなんて些細なこと、と思えたのだった。しかし、なおも私は逡巡する。

 あまりモノを持ちたくないのだ。モノを買うということは、「この世」という海に新たなアンカーを下ろすということでもあるから。このマグを買ったら生きなきゃいけないなと思う。それは大変なことだ。しかしこのマグは欲しい。結局その物欲に負けてしまうのだけど。ああ、真面目に生きなければならないとも思う。

 店主に「これください」と声をかける。「若いのに渋いのを選びますね」と言われる。「若いのに~」という言葉は、この場合誉め言葉だ。軽薄な人間だと思われるより嬉しいではないか。白い緩衝材に包んでもらい紙袋に入れてもらった。この世の縁(よすが)がまた増えてしまった。

 ギャラリーをあとにして、気分が少し上がっている私は紙袋を目の高さまで持ち上げる。この陶器で何を飲もうかと考え始める。

春の夜風

 春の夜風が好き。

 開け放した窓からふうわりと風が入り込んでくる。冷たくさっぱりとした風が。陽光に温められた優しい風とは異なり、きりっと冷えた風が。

 気がつけばすぐに寝苦しい夜がやってくるだろう。むわっとした熱帯夜の空気は嫌いではないが、春の夜風を感じる時間は短いのだ。その儚さの点で他の季節のあらゆる風を凌駕する、気がする。「また来年」なんて考えない。ただその瞬間の風の感触を楽しみに。(そもそももう一年生きるなんてことはうんざりすることで、考えたくないことだ。しかし死を望んでいるわけでもないというのが厄介。先のことを考えるのがただ嫌なだけ。)

 春は風が吹く季節らしい。言語化するのはもしかしたら初めてのことかもしれない。

1600m

 江國香織の『ホリー・ガーデン』を読み始める。まだ序盤。

 静枝さんという人物が登場する。静枝さんは休みの日にプールで泳ぐらしい。1500mから2000mの距離。すごい。ちょっと悔しいので1600mほど泳ぐ。500mずつ足だけ(つまりバタ足)腕だけ(つまりプル)足も腕も(つまり普通のクロール)。100mはウォーミングアップね。

 泳ぐのは退屈だなあと思いながら泳ぐ。がしがしと。

 

 自分は何をやっているのだろうと思う。アイスが食べたいと思ったのだけどやめておいた。

腕時計

 腕時計を買う。

 初めて腕時計を買ったのは、まだ学生だった頃のこと。アルバイトで稼いだお金、誰からの贈り物でもなく自分で買った時計。黒のデジタル時計。アナログ時計よりデジタル時計が好きで、可愛い時計よりかっこいい、アウトドア仕様のものに魅かれた。
 時計を意識したいか?と聞かれたら、それはNoだろう。時間に追われたくない、あくせくしたくない、時計を見たくない。間違ってはいないけれど、それが一番の理由なのだろうか。どうだろうな。あまりピンとこない。

 でも、今回腕時計を買った理由なら答えられる。

 それは時間を確認するのにいちいちスマホを取り出したくないからだ。

 3月の私は出かけるのだ(といってもあと1週間で終わる3月だ)。出かけた先で時間を確認するためだけにスマホを取り出したくない。それが今回私が腕時計を買った理由。そして悲しいことに昔に自分が買った腕時計はどこかに行ってしまった。どうして腕時計というのは失くしてしまうものなのだろう。

 仕事の合間に外に出る。暖かくなり外に出かけやすくなった。私は腕時計をしていて、30分くらい歩ければいいなと思う。日の光を浴びたい。風をからだに通したい。でなければ、私が生きている意味なんてない、ぐらいに思う。割と強めの感情。
 昔の自分が買ったものと同じような腕時計にしてしまった。黒のアナログ時計。私はあんまり変わらないねえ。この時計は大事に大事に使おうね。自分と約束する。

 靴を新調すれば外に出てスキップしたくなる。鞄を買えばたくさんの荷物を入れて外に出たくなる。腕時計を買えば手首に通して10歩歩くたびにニコニコと目を向けてしまう。私はアウトドア派だったんだなあ!と最近ようやく自覚するようになった。私は、とても、アウトドア派です。

 腕時計を買う。それは外の世界に通じる扉のようなもの。外に出る時、私はこの時計を身につける。それが私の好きなこと。好きなやり方。

罫線と無地

 日頃私が使っているノート。整理したつもりが気を抜くといつの間にか増えている。

 人格を交代するように罫線タイプと無地のものを使い分けること。楽しいかもしれないとふと思った。

 普段は無地のノートを愛用しているが、時々罫線タイプに戻りたくなる。真っすぐと均等に確かに引かれた線の"正しさ"のようなものに安心する。布団にくるまれてぬくぬくとするような、そんな心地。

 何を書くかって?大体単語ですよ。今日書いたこと。

 

 散歩

 靴の中の砂利

 コーヒーが飲みたい

 罫線に対する愛しさ

 ノートA、ノートB

 波のある生活

 歌詞を書くように

 

 そうでもないな?こんな感じ。とるに足らない、細々した何か。

 奔放だけど細かいところは細かい、不安定で移り気な私らしい使い方、かもしれない。どちらも必要で、どちらか一方に絞らなくていいのだ。

 自分の中にある"揺らぎ"を認められること。それが強さなのだと私は思う。

眠る間際

ピクニックバッグ。嬉しい。何をわかっているのだ勘違いガール(私)。ガール?ガールねえ…。ガールって何歳まで適用可?そんなこと考えるのが無駄。私の名前を呼びなさい。I'm so sleepy.私はとても眠たい(いつも眠い)。

雨が降っていた。予想していない雨。ああ予想していないというのは、家を出るときにってこと。今日は雨が降る予報だったかな。わからないな。週末の天気予報は調べたから知ってるけども。右手で傘をさす。左手に持ちかえる。途端にぐらぐらする。握力に差がある。

パラパラと雨が弾ける。パラパラは炒飯にも使うわね。ああ炒飯が食べたい。レタス炒飯ってどうしてあんなに美味しいのだろう。でも1番好きなのはクラムチャウダーだし、2番目はアボカドの何か。レタス炒飯さんは多分63位くらいかな。それでもかなり有望株だと思う。まだまだ上位に食い込む可能性を秘めている。

3週間で12曲?私よ、私、鏡よ、かがみ。3週間で12本、物語を書けますか?書ける気もしてきた。でも今は駄目。だって眠たいもの。

喉が渇いた。渇き。渇き。洗濯物が乾くってのは面白いことだと思う。そのことについてはまた別で書くつもり。乾くってすごいことだわ。どうして乾くのかしら。不思議ねえ。

すべてが面倒。眠ることも面倒。投稿するのも面倒。眠る間際は酩酊状態と一緒ね。考えることが嫌になってこんな文章を書いているけれども、たまには悪くない。こういう連想が楽しいのです。ああ、美味しいコーヒーが飲みたい。

 

さて、もう寝ることにしましょう。

踊る理由

 

 このブログのタイトル候補に「それでも踊り続ける理由」というのがあった。YUKIの『Home Sweet Home』から拝借しているのだが、この曲を初めて聴いたときからとても強く印象に残っている言葉だった。

 それでも踊り続ける理由。「それでも」は接続語であり、多分前の言葉に対する逆接になるだろう。私はずっとずっと考えている。私の中にある「それでも」という言葉。この言葉の前に置かれている文章はなんだろう。

 

 一日を無かったことにはしたくない、という理由で文章を書いている。どうして他の人は文章を書かないのだろう。不思議で仕方がない。