ハートを食べるか食べないか考える貝

 仕事でチャットを利用している。

 テキストで、表現が冗長的になりやすく、言いたいことがたくさんある私は、チャットが少し苦手。メールも苦手。そもそもコミュニケーションが苦手なんだろうという話はさておき(もうそれほど悲観していない)Thumbs up!なスタンプを多用している。いいね!了解しました!確認します!全部「Thumbs up!」だ。スタンプには他にも色々あって、驚いた顔や悲しい顔もあれば、ニコニコマークもあるのだけれど、ハートマークだけは使えないことにふと気づいてしまった。というか気づかされてしまった。

 

 親切な行動をする。

 仕事仲間からハートマークが返ってくる。

 鳥肌がぞわっとする。

 試合終了。

 

 「ハートマークを投げて寄こした、すなわちそれはセクハラです」そんなことを言うつもりはなくて、だってセクハラって普通は一つの行動だけではなく、たくさんの仕草やら行動で以て総合的に「あの人はセクハラをした」と判断されるものだと思っているから(と言うと語弊があるな。つまり、声色とか表情とか仕草とか、文脈とか、色々付随するものがあってセクハラになる、と思う)別に業務中にハートマークを寄こされるのは構わないのだけれど(「リマインドしてくれてありがとう!」とかその程度の意味だって知ってる)他意がないことくらい知っていて過敏に反応する方がなんだか馬鹿みたいだなと思うけれど、まあそれでも、ハートマークかあ…と私は少し気落ちする。

 あ、もちろん、性別関係なくセクハラだと思った側の意見をまずは尊重すべきで、「これセクハラかも…」と思うことは何も悪いことじゃないよ!私はそう思っている。

 なんというか、これはセクハラの問題ではないのだ。ぜんぜん違うのだ。むしろ言葉の問題なのだ。記号の問題なのだ。あなたはどういう言葉をどの状況でどのように使いますか?の問題なのだ。どちらかと言えば「あんた馬鹿あ!?」ってあなたは対人に直接言い放つことはできますかできませんか?に似ているのだ。たぶん。

 

 で、ハートマークだ。

 

 仕事だろうが友人関係だろうが、多分私はハートマークを使わないのだ。LINEでも使わないのだ。それはどうしてなのだろう。

 まず赤とかピンク色をしたハートは苦手なのだ。大概ハートは赤かピンク色をしている。黄色とか緑とかのハートならまだマシだけれど、赤とかピンクではないハートに何の意味がある?と思ってしまう。

 赤やピンクのハートはLIKEでありLOVEである。私はぬ!?と反応する。

 

 眼差しは怖い。見られること、聞かれること、想像されること。他人の何もかもが本来なら恐怖の対象で、その恐怖は現状抑えられるレベルだから問題はないけれど、ハートマークとかはその恐怖に近い場所にいるアイコンだ。

 私が他人の思考を制御することはできない。ここからは駄目です!と白いシーツで以て覆い隠すことはできない。わかっていて普段は意識しないようにしているからこそ私はこうして文章を書くことができているが、時々ほんとうに駄目な時は気が狂いそうになる。私は定期的に人がいない場所へ行きたくなるのは、そういう恐怖が少しは関係している。

 

 シリアスすぎる。

 わかってる。過剰に反応し過ぎだ。肯定的に受け止めればいいのに。そういう自罰的思考はあんまり意味がなかったなと思って、今日も私は朗らかに生きている。

 

 悲しいのは、私の周囲半径10mくらいが地雷原のように思えること。もっと鈍感である方が自分も他人も幸せなのだろう。

 

 「私このパイ嫌いなのよね」

 『魔女の宅急便』で祖母のお手製ニシンのパイを切って捨てたあの女の子に、私はなりたくない(と、同時にあの女の子の気持ちもわかる。私は納豆が大好物というわけではなかったもの)。ニシンのパイが美味しいと思える瞬間がやってくるかもしれないし、そのときまでおばあさんにはニシンのパイを作ってもらいたいもの。

 いつかはあなたのハートマークを好意的に、あるいは無理なく自然にそういうものだと、感謝の、労いのシンボルなのだと、受け止められる日が来るかもしれない(来ないかもしれない)その可能性を私の方から捨てたくはないのだ。

 

 だから、「ハートマーク、苦手なんですよね」とは言わない(この場では言っているが)。

 

 何かを表明することは、すなわち何かが確定されることじゃない。そのことをわかってほしいなと思いながら、言葉を放つたびに私は画定されていくし、私は誰かを画定していく。海の底で物言わぬ貝になりたい。なれない。