書店

 書店に行く。今月は行かないつもりだったけれど、近くに立ち寄る用事があったので訪れることにした。

 近くといっても徒歩30分くらいで、私はいまだに電車賃が惜しくて、比較的時間に余裕があって徒歩1時間くらいなら平気で歩いてしまう。母にはふざけた考えだと半ば本気で怒られる。時間と体力は金なり。
 歩きながら考えたことがあった。私はどれくらいの距離、歩くことを許容できるか、と。電車でも行ける場所に徒歩で移動する場合。そして時間とお金に余裕がある場合。
 30分、問題ない(むしろ30分なら電車に乗らず率先して歩くと思う)。1時間、歩くと思う。特に歩いたことない道ならば。歩いたことがあるルートなら少し迂回して向かうかもしれない。1時間半、天気が良好で運動不足であれば。お昼に差し掛かるなら途中で食事すると最高。2時間。もはや歩くことが目的になるから、移動手段としては採用しないかも。電車で向かいます。
 きっとこれから先、どこかで、電車<徒歩の不等式がひっくり返るタイミングがあるはずだ。私は出来るだけその日が来るのを先延ばしにしたい。ひっくり返った時、もう一度今までの形に戻すのは難しいだろうから。

 買いたかった『ボーン・クロックス』を買うことにした。どうせ買うならネット注文ではなく直接書店で買いたい。そうだな、Amazonで注文してギフト包装してもらうという手もあったけれど。今の気分ではなかったのでプレゼント包装はやめておいた。
 既に読んだ本を買う楽しさと空しさには独特のものがある。やっと手元においておけるという安堵感。もう一度読めるという安心感と返却期限を気にせず好きな時に読めるという嬉しさ。そして、「どうして私はもう一度同じ本を買わなければいけないのだろう?」という空しさ。しかし熾火のように心の深くで燃えている何か。この本は買わなければいけないという直感が私をレジへと動かす。その他にこれもまた一度読んだ江國香織の長編を文庫で、あとは句集を一冊買った。

 好きな書店にいるはずなのに読みたい本がない。そんな自分の状態に寒気がする。そういえば、新型コロナウイルス感染によって、肺はある種間質性肺炎で見られる所見に近い状態になるとかならないとか。簡単に言うと、肺の間質と言われるものが硬くなって肺が膨らみにくくなり、ガス交換がうまくいかなくなるというものらしいけれど、なんだかそれみたいだと思う。つまり、自分のからだが硬くなっているような感覚。呼吸がうまくできない。
 本屋に行くと無性に自分で文章を書きたくなる。私の読みたい文章がないならば、自分で書くしかないじゃない、という気分になってくる。
 「読みたい本がない」というのが私の錯覚でしかないことはわかっている。私は本読みであり、本は無数にあること、その中で必ず読むべき一冊、私にとって必要な一冊があるはずだということを、信じている。ただその一冊を見つけられていないだけだ、と。
 たくさんたくさん本が並べられ積まれ収められている書店という空間であっても読むべき本を見つけられないということは、私をひどく悲しい気持ちにさせる。何かが欠落しているというか(そんな風に大袈裟に捉える必要がないことはわかっているのだが)孤独感を感じる。結局今回は読んだことのある本と興味がある句集を買えたので良かった。今、殊に物語に関しては本当に読めていない。物語を、読みたくない。

 

 A4の紙に印刷するかはわからないが、ブログの記事をちまちまとWordにコピー&ペーストしては保存していく。すべてが過去になる。静かに降り積もる雪となる。

 

 東京三大霊園は、谷中、雑司ヶ谷、そして青山だという。乃木坂から渋谷方面に行くとなるとどうも青山霊園を突っ切るらしい。処暑に歩く霊園。谷中も、雑司ヶ谷も青山も、墓石を草花が侵食しようとする勢いが見られて、私は好きだと思う。私が日ごろ墓参りに訪れる墓はもっとこぎれいで整えられていて気味が悪いほど磨かれている。土があり木があり雑草があるそれらの霊園と同じものだとは思えない。どちらがあるべき姿かどうか考えることに興味はないが(別にどちらでもいいと思う。それは時代の趨勢だ)墓場は興味深い場所だ。

鶏肉の塩麹漬け

 横になってYouTubeでひたすらコロナ関連のニュースを見ている自分がいて、ヤバいなあと思いながら実はぜんぜん壊れていないと思う。やがてゆっくりと起き上がると、私はルーズリーフを一枚取り出し、新型コロナウイルスのイメージ図を書き始めた。スパイクタンパク質、(+)鎖RNAエンベロープタンパク質などなど。色鉛筆を使い(STAEDTLERの24色セット)ウイルスを描く。ウイルスとは何なのか。どうして重症化するのか。どうして肺炎なのか。どうして無症状の人もいるのか。ワクチンはどんな仕組みなのか。確からしい情報が欲しかった。現実で起きていることを常に把握していないと私はきっと軽率な行動をとる。私の身の回りでは幸いまだ危機は目に見えるものではないから。自戒の為に常に何かを知りたかった。

 

 一時期、毎週のように歯医者に通っていた。小さい頃の話だ。徒歩2分ぐらいのところに歯医者があって、毎週土曜日に私は一人で通った。帰り道はもふもふの綿を詰めて涙目で帰った。歯を抜くか、歯垢をとるか。血を吸った綿はふわふわだったのが驚くほど縮まり、鮮やかな赤色をしていた。私は歯医者のことが嫌いになった。
 歯医者の跡地にお洒落なカフェができていた。遠目からだと美容室に見えたけれど(ガラス張りだったし)甘味も揃えている食事処だった。昼食がまだだった私は一人店内に足を踏み入れた。
 私以外に客は誰もおらず、綺麗で落ち着いた店内を一目見て気に入った。塩麹につけた鶏肉を焼いたものをメインにしたセットを頼み、食前にとお願いしたアイスコーヒーを啜って料理が運ばれるのを待った。
 アイスコーヒーなんて久々に飲んだ感じがする。少なくとも外食でゆったりと座ってアイスコーヒーを飲む機会はここ半年でなかったのではないか?というぐらいに、久々。
 外食をするのが好きだなと思う。気晴らしになる。
 木皿に混ぜご飯が盛られた茶碗が置かれ、様々な総菜が少しずつ盛り付けられている。私は野菜から食べ始める。血糖値を急に上げるのは良くない、と聞いた。そういえば1型糖尿病についても調べた。最近のコロナのニュースで特にショックだった出来事の一つだ。ゆっくりと丁寧に箸で何度も何度も運んでいく。黒いんげんの甘く煮られたもの、ミニトマト、冷たい野菜ゼリー、鶏肉、小松菜と鮭の混ぜご飯、味噌汁、かぼちゃのサラダ。一般女性よりは多く食べる人間だけれど、ゆっくりと丁寧に食べたこともありお腹いっぱいになってしまった。おそらく食べきれない人もいる、ボリューミーなセットだった。余裕があればパフェを頼もうと思っていたけれど、これ以上は食べられなさそうだったので次回以降の楽しみとしておく。
 私はその日、スマホを家に置いてきた。腕時計も持たなかった。店内には時計が無く、今何時なのかわからなかった。12時のような気もしたし、13時半のような気もした。何時であるのか、そんなことは重要じゃない、平日有給休暇による凪だった。

 

 

人でなし

玉こんにゃく

 きょうだいが土産に買ってきた玉こんにゃくは、生涯で食べたどの玉こんにゃくよりもおいしかった。
 つるんと丸々としたボディ。そして大きめのサイズ。3つ食べれば玉こんにゃく欲は満たされるような、そういう存在感を放つ。
 歯で押しつぶすと想像以上に弾力があって力強い。どの玉こんにゃくよりも強靭で、負けじと顎に力を込めるのが楽しい。こんにゃくはやがて根負けしたのかぐにゃんと潰れるのだが、その時もむるるんむるるんと抵抗し、ただでは潰れてくれない。口の中にこんにゃくのつるつるとした透明な味が広がる。その奥に出汁の微かな気配を感じた。
 風邪に罹ったとしても食欲が無いという事態が非常に稀なので「体調を崩しても食べられる」という感覚がよくわからないのだが、おそらくこの玉こんにゃくは「体調を崩しても食べられる」部類の食べ物じゃないかな。ああ、顎に力を込めるのがしんどい、というのであれば無理か。でも、つるんと喉を通る感覚は気持ちがいいものだと思う。

街灯

 街灯を撮っている。理由はまだ無い(名前はまだ無い、的な)。理由? 町に共通して存在して(もちろん場所によってはないところもあるだろう)かつ一棟だけとかレアリティが高めな構造物でもないから。街灯かマンホールか。思いついたときに私はどちらも撮っている。街灯か、マンホール。上を向くか下を向くかの違いでしかない。でも街灯もしくはマンホールを撮ることの、積極的理由はないのかもしれない。別に撮らなくてもいい。なんなら写真なんて撮る理由がない。それでも私は撮っている。書くことと同じように、理由を超越した行動を身につけたいのだ。理由と目的とはイコールではない。沸き上がるか導かれるかの違い。私は理由も目的もどちらも行動の動機にはしたくない、今、そんな気分なのだ。

人でなし

 自分が自分に下す判断はできるだけ客観的であろうとしなければならない。
 というのは、自分が中学生ぐらいに思っていたことだった。
 客観的であることなど不可能なのはわかっている。そして外部からは見えない自分がいるのもわかっている。外からの評価はそれとして、同じように内側からの評価もある種冷然にすべきだろうと思っていた。だからプロモーションとしての謙遜はしつつも自分を過度にも過小にも評価すること無いように、なんて思っていたのだけど。

 「人でなし」という言葉に縋りたい自分がいる。
 私は自分のことを「人でなし」だと思っている。
 本当に「人でなし」だろうかと思っている。
 「人でなし」だったらいいのにな、と思っている。

 過小にも過大にも評価しているようでわけがわからなくなり、結局、「うっさい!」と、一人ちゃぶ台をひっくり返してこの議論は終わるけれども。自分のことについて考えるのは無意味とは言わないまでも不毛であって、それなら食べたこんにゃくのおいしさとか、街灯の灯りの美しさとかに考えていた方がよほど有意義だった。
 人でなしだった場合、やっぱり嫌なのは、人にあるべき感情がないことで見えないものがあったり、誰かを傷つけるということで、そう思うってことは人でなしではないのでは?と思うよ、思うけど、自分には何かが欠けているような気がしてならない。

 人でなしだった場合、言ってくれれば私頑張るから。
 そう思っているけど、誰も私のことを人でなしだとは言ってくれない。だから何をどう頑張ればいいかわからない。

淡々と確かさ

 アンソニー・ドーアシェル・コレクター』の帯にはこんな言葉が書かれている。

時間が止まる。息を詰め、そっと吐く。

 たいへん私好みの言葉だと思う。静謐さを愛する私。毎日の文章は私が変容していく過程を映し出している。変わらざるを得ないこと、どこかに流されてしまうことについて楽な気持ちでいたいものだ。

 書くことがつまらないわけではないけれど、発見が少ないので最近は書き甲斐がない。
 私は書いていて「無駄!」と思っていて、だから無駄であることを理由にこのブログをストップすることにはならなくて、空っぽの人形がカタカタとキーボードを打っているような、もしその通りなら面白いかもしれない、空虚さがある。
 虚ろでも書かない理由にはならなかった。何のために書いているのかすらわからないぐらいの、北極星みたいな存在であってほしい。

 淡々と、確かな小説が好きなのだと思う。淡々と確かさには美しさが宿ると本気で思っている。でないと私は生きていけやしないとさえ思っている。淡々と確かさをなぞるように文章を書く。多分それは、今の私にとっての目標みたいなものになる。生活を自分の中のコンテンツにしないとどうやらやっていけない世の中であるらしいというのは、実は子どもの頃から思ってた。

静かな心

 相変わらず走っている。別に楽しいわけではないのだが、きつくない程度に走っているので続いている感じ。ああ、ただ一つ。走り終えて適当な距離をクールダウンに歩くのだけれど、そのぽっかりと空いた時間に好きな音楽を聴くのは好きだ。本当に、それは、好きなことだと思う。音楽がするすると無理なく自然に体に入ってくる感じがする。
 江國香織『泣く大人』を読んでいる。以前読んだことがあるのをすっかり忘れていた。二回読んでも好きだなと思うのでそのうち買おうと思う。今月は本屋さんに行けなさそうなのでいっそのことかねてから買いたいと思っていた本をまとめて注文してしまおうか、自分へのプレゼントとして。そんなことを考えて、そうだ、『泣く大人』の話。
 こんな文章がある。

 書名も著者名もさっぱり思い出せないのだけれど、いつか読んだ本のなかに、こんな言葉があった。

  あらゆる快楽のあとにまだ
  眠るという快楽がひかえている

 これは、ほとんど私のモットー。逆の言い方をすれば、たとえば憂鬱な一日にも、少なくとも眠るという快楽はあるのだ。

  わかる。くたくたになるまで歩いたり、ジョギングした日の睡眠はうっとりするぐらい気持ちがいい。最高だと思う。

 帰り道、見上げた夜空にぽっかりと浮かぶ月がたいそう綺麗だった。夏目漱石の『こころ』は良いタイトルだなと、ふと思った。人の心について考えているの? 私。どうだろうね。ああ『シェル・コレクター』もいい小説だと思う。静かな文章を書きたい。静かな、文章。悲しい。この悲しさが朝目覚めれば消えてしまうことも悲しかった。ぎゅっと一瞬を保存できたらいいのにね。もう寝ようね。

ゆゆしき事態

 本が読めない。本を借りにいけない。運動する気にならない。文章を書く気にならない。外に出られない。全部私にとっては由々しき事態。

 相変わらずちまちまと『徒然草』を読んでいているので(今のペースだと、70日以上かかる)古語辞典である『古語林』をひく機会が多い。
 辞書というのは偉大だね。本は容易に手放せるが辞書の類はなかなか手放し難いところがあって、その結果学生時代に使っていた辞書がそのまま手元に残っているというのは素晴らしいことだ。辞書は高いから金銭的にも気持ちにも余裕がある時に買っておくといいと思う。働くようになってから、何故か英和辞書を買ったし漢字辞書も買った。ロシア語の辞書とか、外国語の辞書買いたい。電子辞書を買えば便利だしコスパもいいのだろうけれど・・・それはさておき。
 『古語林』で「ゆゆし」を調べてみる。

  1. 神聖でおそれつつしまれる。
  2. 不吉。縁起が悪い。
  3. (よくも悪くも)なみひととおりではない。
  4. たいへんすばらしい。

 神聖なもの、触れてはならないもの、の意である「ゆ(斎)」を重ねてできたと言われる。本来は1の意で、そこから良くも悪くも程度がはなはだしいという意になっていった。

 また『新明解国語辞典』によれば、由々しいは

  1. そのまま放っておくと取り返しがつかない災難を招くおそれがある様子だ

となる。触れるとまずいに予感がプラスされた感じだ。

 私は直感的に、今のような状態を放っておくのはまずいと思っているということだ。それはまだ希望がある感じがする。というか、こうして起き上がり(午後はずっと昼寝して起きたら起きたで図書館に行こうか行くまいかうだうだしている間に閉館時刻になってしまった。横になっていた休日)文章を書いている時点で、80%ぐらい回復している感じがしている。書けるならまだ大丈夫だ、という謎の信頼を寄せていて、その信頼が裏切られたことは、まだない。

 コーピングリストを作っている。どんどん書き足していく必要があるので(項目はあればあるほど良い)紙ではなくworkflowyで書く。どのような行動を重んじるか把握したかったので、大項目としていくつかリストアップして、そこから段落を下げて書いている感じだ。大項目としては、食べるとか、飲むとか、書くとか、運動するとか。食べるなら、

  • 食べることに集中する(何を食べたのか関心を寄せる)
  • 食べたことないものを食べる
  • 外食する
  • 中華料理屋の中華定食を食べる
  • 生クリームに埋もれる
  • 甘いものを食べる
  • 日清のトムヤムクンヌードルとコンビニの塩むすびを食べる
  • ピクニックする
  • ラーメンを食べる
  • 肉を食べる
  • カレーを食べる
  • キャンベルのスープ缶のクラムチャウダーを食べる

これだけある。どんだけ食べることが好きなんだ。多分これからも増える。「唐揚げ弁当を食べる」も入れたい。ちなみに一番項目数が多いのは「出かける」で、出かけるなら、具体的にどこに出かけるのかまで細分化して書くのがいいらしい。
 書いていて面白いなと思ったのは、私のコーピングリストには「本を読む」は入ってないということ。例えば「YouTubeで好きな動画を見る」ということも入れてない。本を読むことは、精神的にも肉体的にも余裕がある段階で初めて楽しめるということだと思う。そもそも本を読む気力体力がないからコーピングリストで気晴らしをしましょうね、という話なのだ。
 「YouTubeで好きな動画を見る」も、実はYouTubeで動画を見ることは、私にとって気晴らしであると同時に現実逃避の感が強くて絶えず後ろめたさが付きまとう。YouTubeの動画ばかり見てしまう状況というのは自分的にはあんまりよろしくない、ということもあって、コーピングリストには入れられない。
 あとは、悲しいかな、自分が人と何かをするということが気晴らしになり得ない人間というのも書いていてはっきりしてくる。もちろん「現時点の私は」という留保がつくけれども、それにしても人と関わることにある種のストレスを感じる人間なのだなと、まあそういうものなんだろうけれど寂しさを感じる。「本を読むこと」に近いのかもしれない。元気じゃないとできない行動。

 私は自分の調子面の観測点としていくつか観点を作っている。冒頭にあげたことがそれ。数日間かけて同じなら、私は自分が由々しき事態に置かれているのだとしている。
 私はそこから回復したい。
 決してよりよく生きたいからではない。時間が惜しいからだ。私が伏している間にも時の砂はさらさらと散っていき、再び手にすることはできないのだから。
 本当は日々少しずつ少しずつストレスを緩和していきケアしながら生きていければいいのだけれど、この情勢だもの、なかなか難しい。由々しき事態のその先に行かないよう、引き返す為のよすがとなれ。

 私はこの文章を書きながら、これを書き終えた後にやることを考えている。日が完全に暮れる前に散歩をしよう。コンデジを持って(悲しいことに、8月は全然写真を撮ることができていない。今から巻き返すことはできるか)あとは、1000円で何を買えるか試してみよう。水で割って作れるビネガードリンクの素も買いたい。今日は行けなかったから、今週どこかで図書館に行きたい。泳ぎにも行きたい(でも感染したら怖いな)。

 とりあえず生きていく。大層なことをしようと思わず、細かく馬鹿げたことを重ねたい。

パルスオキシメーター

明太子のパスタソース

 乾燥パスタを熱湯で茹でる。茹で上がったらざるにあけて、湯をきった麺に明太子のパスタソースをかける。ソースが全体にまわるよう、箸でかき混ぜる。刻み海苔をその上に大量に散らす。麺が見えなくなるまで、海苔を。
 私はそれを、テーブルに広げた新聞を読みながら黙々と食らう。コロナ、甲子園、高校総体、詩、みずほ銀行のシステム障害、アフガニスタン情勢、今秋の自民党総裁選。パスタと時事を咀嚼する。

パルスオキシメーター

 注文していたパルスオキシメーターが届く。いつも「○○に届きますよ~」という連絡が来るから荷物の心づもりができるものだけれど、今回は不意打ちだったので驚く。その方が嬉しいしワクワクするよね。なお、発送しましたメールは商品が届いてから送られてきた。
 私の住む自治体がコロナの自宅療養者に対してどのようなアクションをとっているのか、いまいちわからない。駄目だったときは駄目なのだろうが(そうやって無理に自分を納得させ現実を受け入れようとするから今のような状況になってんだろうが、と思うけれど、元来私は無理な要求をそのまま「そういうものか」と飲み込んでしまいがち)この機会を逃すとパルスオキシメーターなんて買おうと思わないだろうという好奇心も相まって注文してみた。
 酸素飽和度と脈拍を主に測ることができる。クリップのように指を機械に挟んで計測する。酸素飽和度98、脈拍75。自分の体に関する数値なんて知らないに越したことはねえな、と思いながら、面白くて何度も測る。そういう余裕がこれから先も持てるといいのだけれど。

嗅覚

 部屋にはシトラス系の香りづけのスプレーがあって、いくら使っても無くなる気配がない。私は時々スプレーを振りかける。ところが噴射して香るはずの匂いが一切感じられない。血の気が引いた、という夢を見た。
 夢を夢だと気づけないタイプの人間なので、当然だが目覚めは最悪だった。コロナウイルスにとうとう感染してしまったのか。起きがけ、ドキドキしながら、スプレーを手に取ると、部屋でシュシュッとした。きちんと柑橘系の鋭く爽やかな香りがした。安心した。勘弁してほしい。嗅覚とか味覚とか、そういうものを意識させないでほしい。匂いとはなんや、味とはなんや、考えたら最後、自分の足元にある地面が崩れる気がするから。そういうことは考えない方が幸せな気がするのだ。