ワクチン接種2回目

 ワクチン接種2回目である。翌日は副反応で熱が出るものだと思い、早々に休みを申請、前日にはアクエリアス2リットルを用意する。冷えピタはあまり使ったことがないので見送り、市販の解熱剤は何を買えばいいのかよくわからないのでやめた。あくまで確率的なものだが「明日熱出ますよ!」とわかっている状態というのも面白い。

 さて、色々とある。つい最近もワクチン接種後に体調が急変し亡くなるというニュースがあって、特に2回目だからというわけでもなく(つまり1回目に接種するときにも同様のことは考えてはいた)「私は死ぬのかしら?」とうっすらぼんやりと思いながら大手町のセンターへと向かう。ちなみにもう少し書くと、ワクチン接種と死亡事例の因果関係を特定するのは難しいということは理解している。朝に緑茶を飲んで、昼に急に体調不良で亡くなった場合、緑茶の成分が死因だとは誰も思わない。しかしコロナワクチンはここ1年で登場したものだし、仕組み自体もまだまだ新しい。緑茶とは歴が違う。そもそも緑茶とワクチンは違う。因果関係を認めたくなるのは、それはそうだろう。

 大袈裟なのだろうか。他の人はどんな風に思っているのだろうか。不安がまったくない人もいるだろう。その逆で不安で押しつぶされそうになりながら接種センターに向かう人もいるだろう。ただ、外面的には多くの人が淡々とワクチンを接種しているように思う。もちろん私もその一人だろう。

 凪いだ海でもその水面下では潮流が渦巻き魚が回遊し海底からは火山ガスが出ていたりするものだ。人もそうなのだと思う。でも、それってずるいなと思う。もっと取り乱してくれてもいいじゃない、見えないとわからないじゃない。私一人狼狽えているようで、なんだかずるい、と思ってしまう。

 私、死ぬのかしら。死ぬこともあるかもしれないな、あるいは何か困ったことが起こるかもしれないな。でもそれらのリスクを引き受けようとしている。そこには素晴らしい理解力があるわけもなく、私が咀嚼できる限りの情報を比べて検討したけど結果的には流れに従って採用されたものに過ぎない。人はいつ死んでもおかしくないわけだし。それが今日なのか明日なのか1年後なのか5年後なのか30年後なのか、その違いだけで。ただ明日も続くかもしれないから続いたとき困らないように私は黙々と生きている。無駄遣いせず筋力も落とさぬよう筋トレをする。なんというか、非常にぼんやりとした、生きる未来と死ぬ未来が混在したような、体の内で揺らめいていた感覚がコロナワクチンによって浮き彫りになる。

 

 相変わらず自衛隊の大規模接種センターは見事なベルトコンベア方式で、1回目より人が少なく、さらさらと私は流されていった。前回、アレルギーのことを予診表に書かなかったら問診の際に「次回は書いてくださいね(圧」と言われてしまったので、2回目は正直に書くと接種後の待機時間が30分に伸びた。幼少期以来特に反応もなく、むしろ好きなものだからこれまでたくさん食べてきて、書かなくても平気だろと思っていたけど、既往歴はきちんと申告した方が良いのだなと反省した。

 医師あるいは看護師さんによる問診でのこと。私の隣の机では女性が質問を畳み掛けていた。ロットは大丈夫ですか。この会場で打つワクチンに問題ありませんか。質問内容から察するに、異物混入が発覚した事件を受けてのことだろう。淡々と丁寧に医療従事者の方は答えていく。ともなると、今この瞬間、質問に機械的に回答していく私はずるい人で、向こうのテーブルで詰問している女性はある種正しい姿なのだろうと思った。みんな不安なのか、やっぱり。

 

 帰りにマックのポテトフライLとカフェオレを買って帰る。帰宅後、カフェオレをずーずーと飲みながら「美味しいカフェオレが飲みてーなー」なんてことを考え(マックのカフェオレが美味しくないとは思いませんよ)いまいち集中できないままゴロゴロしていたらこんな時間になってしまった。

 自分の体調に眼差しを向ける。腕の痛みあり、体はポカポカしているがおそらく微熱ほど上がってはないと思う、そしていつものことながら食欲旺盛。

 さて、無事に朝日を浴びれるといいけど。

 新型コロナウイルスに感染し自宅療養(あるいは入院治療)でかなりしんどい状態の人にとっては「無事に朝日を浴びれるといいけれど」が切実な願いであるのかもしれない。そのことに思いを馳せ、泣きそうになる。新型コロナウイルスだけでなく、日々病と対峙している人の日常にもほんの少しだけ触れたような気がした。

 考えたければまた明日考えよう。今日のところはおしまい。