書写

書写

 高校の入学前説明会でのこと。だだっ広い体育館に整然と並べられたパイプ椅子、その上には、テキストが山積みになっていて、その中には『オペラ座の怪人』の原書や、角川ソフィア文庫の『枕草子』も混ざっていたことを覚えている。『オペラ座の怪人』は捨てたが(勿体なかったなと後悔している、が当時色々書き込んでいただろうからやっぱり今読むとちょっと苦いかもしれない)『枕草子』はどこかにあるはず。
 さて、『徒然草』があったので読み始める。こちらも角川ソフィア文庫。おそらく学校の課題で無理やり買わされたやつだと思う。どうせそのうち飽きるだろうと思いながら、SARASAの1.0mmでA4の紙に『徒然草』の原文を書き写していく。他にもやるべきことがあるだろうに、私はそんな方法で暇をつぶしている。文字を書くのが好きだからね。

 徒然なるままに、日暮らし硯に向かひて、心にうつりゆく由なしごとを、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそもの狂ほしけれ。

徒然草 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』 序段

  今のようなスタイルに落ち着いたのは高校卒業後だけれど、清少納言の『枕草子』と吉田兼好の『徒然草』からの影響は少なからずあると思う。私は『枕草子』のようなスタイルで文章を書きたいと思っていたし(それはつまり随筆ということになる)書くことを自然とする様は『徒然草』の冒頭を意識している、と思う。そしてやがて星野源的タイトルが混ざるようになる。私はずっと徒然に書いていたい。
 そうね、あの時代に資本主義とやらはなかったわね。ただ人は書きたくて書いていたのだわ。そう思うと、私たちはとてもシンプルなことを複雑にしてしまっているのかもしれない。多分、そう。

金髪

 きょうだいの髪が金髪になっていた。
 昔から、人が話さないことを聞くのが苦手なので、どうして金髪にしたのか聞けていない。スーパーに行くときに目立つからとニット帽を被って出かけて行った。じゃあどうして金髪にした? それに今は夏ぞ?(ここ数日はグッと冷え込んでいるが)
 髪を染めていたところもあったけれど、面倒になってやめてしまった。つくづく面倒くさがり屋の人間である。

 アイドリッシュセブンを始めて2か月になる。なんでそんなことわかるのかって、ちゃんと私はそういうことを記録しているからです、と言ったらやばい人間だと思われるだろうか。
 四分の一、正解。私は別にやばい人間ではない(おそらく)。そしてその日に起こったことをいちいち記録するわけでもない。ただ、面白かったこと、特筆すべき事項はスケジュール帳に書いているだけなのだ。例えば「アイナナを始めた」とか「博物館に行った」とか。
 アイドリッシュセブンは、アイドルが成長していくストーリーと、アイドルの楽曲で遊ぶリズムゲームが特徴のゲームで、私は黙々と遊ぶ。毎日ちょっとした時間にログインしては、ログインボーナスを受け取り、デイリーミッションをクリアし、イベントゲームをする。このゲーム、今からアンインストールしてもいいよ、いつだってそう言える距離間で。
 そもそもこのゲームを遊ぼうと思ったのは、ガチャを引きたかったからで、ガチャが引けて今後もある程度続きそうなアプリなら何でもよかった。私はガチャを引く。無課金で黙々と。引けるタイミングで、引く。
 今日もガチャチケット5枚(ガチャチケットは時々もらえる)で1回ガチャを引く。10枚あったから2回引くことができて、2回目でUR(ウルトラレア)と呼ばれる、最上位のカードを引けた。一昨日も引いて、この2か月で6枚目となる。この枚数が果たして運が良いことなのか、そうでもないのか、私にはわからない。ちなみにガチャの確率一覧は、SRが93%、SRが5%、URが2%である。やっぱり運が良いのでは私。

 ガチャを引きたかったからアイナナを始めた。ではどうして私はガチャを引きたかったのかというと、「自分は運が良いことを可視化したかった」のかもしれない。今日、ふとそんなことを考えた。
 自分の運というのはなかなかわからないものだと思う。起こり得なかったことに形を与えるには、想像することが必要で、想像することにはひと手間工夫が必要だ。例えば、ぼーっとした頭が空っぽな時間を作る。何かを考える為だけの、リラックスした時間を。そうして私は一つひとつ、今の自分の状態を点検しながら起こり得なかったことに思いを馳せる。例えば、親がファンタジーの分厚い児童書を買ってくれなかったら。例えば、片頭痛持ちで頭がしくしく痛むのが常態だったら。例えば、高校受験で別の高校に行っていたら。
 私は自分は運が良い人間だと思っている。そして、運が良かったが為に成り立つ今の状況を当たり前だと思ってしまうところがある。多分人間はそういう生き物なんだろう。だから人はその当たり前に懐疑的であろうとする姿勢を見せてきたのだと、思っている。
 当たり前だと思っている運の良さを、私はガチャを引くことで可視化したかった。URが引けた、SSRが引けた、私は、運が良い。
 ガチャを引くことで、「運」という意味不明な存在がこの世にはあることを意識する。仮にSRが出たところでがっかりしない。ガチャに関していえば、私はまったく期待をしていないのだから。(こんな物言いは、特定のキャラクターを引きたくて奮闘している人にとっては嫌味に聞こえてしまうことは重々承知している)
 URを引いた興奮で沸き立った感情はすぐに鎮静化する。
 運なんて嫌いだ。運があったって、なくたって、誰もが幸せになればいいのに。であれば、私は遠慮なくその運の良さを享受するというのに。