人でなし

玉こんにゃく

 きょうだいが土産に買ってきた玉こんにゃくは、生涯で食べたどの玉こんにゃくよりもおいしかった。
 つるんと丸々としたボディ。そして大きめのサイズ。3つ食べれば玉こんにゃく欲は満たされるような、そういう存在感を放つ。
 歯で押しつぶすと想像以上に弾力があって力強い。どの玉こんにゃくよりも強靭で、負けじと顎に力を込めるのが楽しい。こんにゃくはやがて根負けしたのかぐにゃんと潰れるのだが、その時もむるるんむるるんと抵抗し、ただでは潰れてくれない。口の中にこんにゃくのつるつるとした透明な味が広がる。その奥に出汁の微かな気配を感じた。
 風邪に罹ったとしても食欲が無いという事態が非常に稀なので「体調を崩しても食べられる」という感覚がよくわからないのだが、おそらくこの玉こんにゃくは「体調を崩しても食べられる」部類の食べ物じゃないかな。ああ、顎に力を込めるのがしんどい、というのであれば無理か。でも、つるんと喉を通る感覚は気持ちがいいものだと思う。

街灯

 街灯を撮っている。理由はまだ無い(名前はまだ無い、的な)。理由? 町に共通して存在して(もちろん場所によってはないところもあるだろう)かつ一棟だけとかレアリティが高めな構造物でもないから。街灯かマンホールか。思いついたときに私はどちらも撮っている。街灯か、マンホール。上を向くか下を向くかの違いでしかない。でも街灯もしくはマンホールを撮ることの、積極的理由はないのかもしれない。別に撮らなくてもいい。なんなら写真なんて撮る理由がない。それでも私は撮っている。書くことと同じように、理由を超越した行動を身につけたいのだ。理由と目的とはイコールではない。沸き上がるか導かれるかの違い。私は理由も目的もどちらも行動の動機にはしたくない、今、そんな気分なのだ。

人でなし

 自分が自分に下す判断はできるだけ客観的であろうとしなければならない。
 というのは、自分が中学生ぐらいに思っていたことだった。
 客観的であることなど不可能なのはわかっている。そして外部からは見えない自分がいるのもわかっている。外からの評価はそれとして、同じように内側からの評価もある種冷然にすべきだろうと思っていた。だからプロモーションとしての謙遜はしつつも自分を過度にも過小にも評価すること無いように、なんて思っていたのだけど。

 「人でなし」という言葉に縋りたい自分がいる。
 私は自分のことを「人でなし」だと思っている。
 本当に「人でなし」だろうかと思っている。
 「人でなし」だったらいいのにな、と思っている。

 過小にも過大にも評価しているようでわけがわからなくなり、結局、「うっさい!」と、一人ちゃぶ台をひっくり返してこの議論は終わるけれども。自分のことについて考えるのは無意味とは言わないまでも不毛であって、それなら食べたこんにゃくのおいしさとか、街灯の灯りの美しさとかに考えていた方がよほど有意義だった。
 人でなしだった場合、やっぱり嫌なのは、人にあるべき感情がないことで見えないものがあったり、誰かを傷つけるということで、そう思うってことは人でなしではないのでは?と思うよ、思うけど、自分には何かが欠けているような気がしてならない。

 人でなしだった場合、言ってくれれば私頑張るから。
 そう思っているけど、誰も私のことを人でなしだとは言ってくれない。だから何をどう頑張ればいいかわからない。