ふたりの応答

電車を降りて、ホームを踏みしめる。私はポッドキャストを聞くか、一瞬躊躇う。だから私は私に「ねえねえ、今ポッドキャスト聞いて平気? あなた聞きたいみたいだけど、本当に平気?」と聞く。私がポッドキャストを聞く気分じゃないときもあるからだ。

このような風景は、私にとって珍しいことではないし、私以外の人もこのような自己内応答はやってると思っているが、自明のこととして案外言語化されてはないのかもしれない、とふと思ったのだった。

 

私自身、とても直感的な人間だと思う。そこに後から理性的な要素が入ってきた(形成された、成長した)。ベースとして直感で動くのが得意で、ただし社会で生きていく為に直感に全振りすると色々都合が悪く、後付けで理性的な人格が強くなっていったような気がしている。

コンコンコンとノックをするのは、理性的な私だ。どうしてどうして、と理由を求める私だ。

コンコンコンとノックされるのは、直感的な、言葉が追いつかない私だ。

後者の私はとても気分屋で、昨日ラーメンを食べたいと思っていても、明日ラーメンを食べたいと思うかはわからない私だ。だから理性的な私は直感的な私に都度都度尋ねなければならない。あなたは今、何が食べたいの?食べたくないの?

何故尋ねるかというと、直感的な私の気分によって、私の調子が変わってくるからだ。抗わない方が、エネルギーの消耗が少ないのだ。

でも、直感的な私は、決していつも主張をするわけではない。応答がないときもある(それは私にとって何も浮かばないモード)。そういうときは、理性的な私がとりあえず体を動かさなければならない。でも理性的な私は、選択肢の中から判断するのは得意だが、何もないところから生み出すことはそこまでできない(直感的な私の得意とするところだ)。なので、直感的情熱的な私が残しておいたメモを手がかりにとりあえず動いていく。

 

私の中の仕組みはおおよそこういうイメージだと思う。

ドアを叩くかどうかは、理性的私が思い出したときに限り、直感的私はドアを叩くという選択肢を(言葉を)持たないから叩くことはできない。直感的私が理性的私の領域を侵食するようになると、それは一言で言えば「だいぶ調子が悪い」ということになり、時間をかけたケアが必要だ。

理性的な私はドアを叩くことを忘れる。あるいは直感的な私はドアのノックが聞こえない程度まで暴走する。そうしてバランスが崩れることを私は私の調子の悪さと定義づける。いかにバランスを保ったままを維持するかが課題になる。

ミニショルダーバッグを買おうと思った私は直感的な私だ。予算と今後の展望を考慮して買うと決めたのは理性的な私だ。お互いが応答し合うことが私にとっての健康で、維持するのはなかなかに難しいけれど、今までこういうことも言語化してなかったので、維持に貢献してくれたらいいなと思う。ちなみにポッドキャストは聞くことにしたし、この文章の根底にある気づきを得たのは理性的な私で、書き終えることができたのは直感的な私のおかげ。