責任の評価

つまりこの状態は言ってみれば「キレてる」なのかもしれない。

私、キレています。何にキレているかというと、端的に言えば「自分が負う責任への評価が甘い人間にキレている」のだが、まあ、思考が加速して仕方がない。私、ウキウキである。

以下は私が冷静にキレ散らかしてる文章になる。

*** *** ***

キレるまではいかないが、こういうケースはままある。というより、私がキレる唯一のポイントと言っても過言ではないかもしれない。

もっとわかりやすく書くと「私たちはミスを犯した。オメーのそれに対する自己評価はそんな程度なのか? もうちょっと重めに評価しろや」である。そのミスのカバーに入るのは私なのだが???(もちろん、私の責任範囲としてそのミスを防ぐポイントを逃したのも事実なので、私にも責任はある)もうちょっと申し訳なさそうにしてもらわないと、私の溜飲が下がらないのだが??? というのもある。これは、私が狭量なだけなのだろうか。そうなのかも。

仕事はくだらない。こんなことをして何の意味があるのかわからない。私は自分の仕事にやりがいを抱いていないし、価値も認めていない。でも、私は私なりに頑張ることにしていて、それは、その場に留まり続ける選択をしたことに対する責任と思っているからだ(給料をもらってるというのもあるかもしれないが)。だから、もうちょっと頑張ってほしいのよな。いや、頑張ってはいるのよな、ただ頑張っているレイヤーが違うし、他にもレイヤーがあることをわかっていない(自分も昔はそうだったかもしれない)。

私は、大事にならないミスやアクシデントは嫌いではなく、大事でないミスなら原因分析も嬉々としてやる。それは、またひとつ、底が抜けたバケツの穴を見つけられたことに対する喜びだし、事態の好転に対する祝福である。私はまたひとつ見地を得た。結構。素晴らしいことではないか。

過大に自分の責任を評価するのでも、過小に評価するのでもなく、適切に自然体に責任を引き受けようとする人は人間として魅力的だと思うし、できるなら私はそうありたい。だから、いつもいつも責任に対する評価は欠かさない。私が負うべき範囲はどこか。その範囲内でするべき最善の行動は何か。

評価が甘いのはまだ良い。本当にイライラしてしまうのは、そもそも「責任に対する評価」という視点すらない人なのだと思う、と書いたところでだいぶ落ち着いたので、今日は甘い飲み物でも飲んでぐっすり眠ろうと思う。やれやれ。キレるのは面白いけど疲れるのよね。

手繋ぎ

 手を繋ぎたいと思うものなのだろうか。これを読んでいるあなた、思いますか。

 

 A駅からB駅まで1時間ほど歩いた。本当は帰りに喫茶店に寄りたかったのだけれど、体は疲れていたようで、駅とは反対の方向へ足が勝手に動いたのだ。

 気に入っている道を歩いていると、私の前を、私より、そうだな、プラス5歳から10歳の男性と女性が仲睦まじく手を繋ぎ談笑しながら歩いていた。率直に「いい光景だな」と思った。私は彼らを追い越して、ガソリンスタンドの角で止まる。信号が青信号に変わるのをガソリンスタンドのぎらぎらした照明を浴びながら待つ。ガソリン特有の匂いが(私はこの匂いが嫌いじゃない)鼻をつく。振り向くと、追い越した男性と女性はどこかに消えていた。

 なおも歩きながら考える。考えてみると、昔から私は手を繋ぎたいという情動に乏しいようだった。手を繋ぎたくないという拒否感もなかったが、繋ぎたいとも思わなかった。言うなれば、手を繋ぐという行為に意味づけがされていなかった。

 そして、私の外には既に意味がある。手を繋ぐという行為には意味がある。親愛の情、友愛の情、恋慕の情を示す行動(と思っているけどどうなんでしょう)。私の中で意味が生まれる前に、その行動には意味があって、なんというか「遅れた!」という感覚が自分の中ですごくある。既に存在する意味は難攻不落の鉄壁で、今更それ更新することなんてできなさそうで。とはいえ、外にある意味を自分の中で落とし込めるかというとそうでもなく、結局「私は手を繋ぎたいわけじゃないんだよな」というただの気持ちに着地する。

 だから、手を繋ぐ人を見て「いいな」と思う。私は手を繋ごうと思わないから。私はこれまであまりに手を繋ぐ人を見てきた。見すぎた。自分で考えるよりも前に意味が強化されすぎた。なので私はもう、自分が誰かと手を繋ぎたいのか繋ぎたくないのか、よくわからなくなっている。ちなみに思うけど、歩いているときに手を繋ぐと片手が塞がる。片手が使えないとスマホも操作しにくいし(片手だと私にとってスマホは大きい)メモもできないし(歩きながらときどきメモをとる)写真も撮れない(写真もときどき撮る)気がする。気楽ではなさそう。

急く

 元来、元気な人間である。なので自分の体調面に意識を割くということをしたことがなかったな、とふとしたときに思った。対して最近の私はメンタルの調子にめちゃめちゃ気を遣っているなあとも思うのだった。

 それもこれも、落ちると落ちた後のリカバリが面倒、時間は有限、落ち込む時間が勿体ない、というマインドセットのせいだろう。ノートにも「また落ちた。そんな自分が嫌だ」みたいなことを書いてきたから、書く度に強化されていったのだと思う。

 一日の終わりが近づくと私のMPはすっからかんになり、何かをするという気力が沸かないときもざらなので、最近は日記めいたものは朝起きて一番に書くようにしている。昨日どんなことをしたのか、どんなことを見聞きしたのか、どんなことを面白いと感じたのか、内容はそんなところだ。もちろんそれ以外のことを書くこともある。

 意識してそうしていたわけではないのだが、自然と最初に書くことが似通っているのが面白い。すなわち「今日の調子は良い/悪くない/悪い」。ちなみに今日は「悪くはないが急いているところがあり、朝からやけに活動的なのでむしろ良くないと思う。気をつける」である。良すぎても駄目、悪くても駄目。心の調子というのは保つのが難しく、やりがいがある作業だ。

 スケジュール帳をぱらぱらとめくる。予定というよりは出来事を書きつけているので、1か月の重みがそこにある。一日は一日で、それでとりあえずは完結していて、前に早く進むこともゆっくり進むことも自分の意のままに調節することはできないもので、私はそれを「監獄みたいだ」と思うこともあれば「ありがたい有限性」と思うこともある。時間に対する評価は時と場合により、評価が変わりうるということそのものが自分という人間の持つゆらぎで、そういうことを考えているということは、今日はやっぱり思考が過剰に回り気味で思考以外のものが(感情も含め)追いついていない日なのだろうと思う。

散歩にカルピス

散歩の供に自分で原液を薄めて作ったカルピスを選ぶと、歩くときのテンションが10%ほど上がる。

水筒で作るのは憚られたカルピスも、プラスチックのウォーターボトルなら不思議と抵抗感がない。透明なボトルに七分の一ほどの原液を入れて、氷を入れて、水を入れて、蓋を閉めてシャカシャカと振って、そのまま私は散歩へと出かける。

真面目なお出かけにカルピスを持って行くことはないが、三十分程度の散歩ならそこまで厳しくなくていいでしょう。白濁したボトルの中身に、もしかしたら通りすがりの人は怪訝な顔を向けるかもしれないが(散歩にカルピスとはあまり思いつかない組み合わせかもしれない)陽の光を浴びながら飲むカルピス、そのこっくりとした甘さは格別である。

私は缶酎ハイ片手に歩く人の気持ちがどうもわからず(散歩と缶酎ハイはそれぞれ独立して交わることのない、交わってもそこから生まれたものは1+1でしかない組み合わせ)今もわからないけれど、私の中のカルピスを飲む気持ちよさみたいなものかな、と最近は思うことにしている。

気怠さのなかのコーヒーゼリー

今週は連日寝る時間が遅く、その反動からか眠たくて午後はずっと眠っていた。泥に沈み、這いあがれないような眠りだった。

 

普段行かないスーパーに出かけると、縦長のカップに入った普通のコーヒーゼリーと飲むコーヒーゼリーが並べてあって、歩きながら飲もうと飲むコーヒーゼリーを手に取った。

ふるるんと震えるコーヒーのゼリーの上に、こんもりと生クリームが盛られている。業務用の生クリームなのだろう、家では再現することはできない、決して崩れない生クリームだった。

太めの赤いストローで生クリームだけ掬って口に含むと、ほのかに甘さを感じた。ゼリーも食べてみる。甘さはほとんど感じられない。ここから啓示を受けたと思って、私はストローでがしがしと生クリームとゼリーをかき混ぜ、ストローでずずずと飲んだ。もちろん、おいしい。

生クリームは正義だなー、と私は思う。そのうち生クリームのことが嫌いになるかもしれないけど(胃もたれするとかなんとかで)今日の私はまだ生クリームのことが好きだった。

気だるい土曜日だ。空もすっきりとは晴れなかった。着実に暗くなっていく灰色の空を眺めながら、気だるさを、気だるさのまま享受する、根気なのか、ゆとりなのかが必要だと感じた。ヘッドフォンからはランダムに音楽が流れ、私はindigo la Endの不思議なまんまのイントロに耳を澄ませる。

要素

 私が中学生か、それよりもっと昔か「脳内メーカー」というものが流行した。今でいう診断メーカーと似ている。名前からその人の脳内のイメージを自動生成するという、根拠もなにもない、「くだらない」と切って捨ててしまってもいいもの(でも、こうして文章に書いているということは、切って捨てるわけではないということだ)。

 私は当時からこの脳内メーカーというものにどこか惹かれていた。脳内メーカーの結果というよりも、脳内メーカーがやっていることに関心を抱いたのだ。つまり、私という人間を要素で説明するなら、どのように説明できるのだろうか、ということ。

 人間というのはあらゆる要素の複合物であり、そのパターンは無限大だからユニーク(唯一無二)なのだと言える。小さい頃の私は「じゃあ、その要素が多ければ多いほど、多種多様であればあるほど、自分という人間は複雑になるということだろうか」と考え、とりあえず色々なことに関心を抱いてみようというのを己の暫定的な方針としたのだが、それはまあ、どうでもいい話だ。

 エッセイを読むということは、書き手の要素を把握するのに結構便利だと思う。ということで、今読んでいる作家のエッセイから抱いた要素をノートに羅列してみる。ふむ。もちろん、私が書き連ねたことがすべてではないし、正確に人を見積もることも不可能なのであくまで暫定的な余興みたいなものだ。

 その下に、おこがましいけれど自分の要素を挙げてみた。自分を構成する上で、なくてはならなかったもの。

  • 泳ぐこと
  • 食べること
  • 体を動かすこと
  • ノートとペン
  • 本(not文学)

 その作家の要素(私が勝手に考えたもの)の一番は「音楽」だった。音楽といってもポップスでもない。ありゃ、もう私とあなたは他人じゃん、となる(そういう話をしている)。

 私は、音楽もアニメも漫画も映画もゲームも好きだけど(もちろん、めちゃめちゃ好きな人の熱量には遥かに劣る)好きだけど、自分を構成する元素みたいなものには挙げられない。それは私の核が作り上げられた、そのあとの話、という気がしてならないのだ。ゲームは特に小さい頃から遊んでいたはずなのに、それでももっと後期に位置づけたいもののようだった。

 本というのも面白い。私は人並みより少しだけ本を読んでいると思うけれど、文学を読んできたという自覚には欠ける。じゃあ何を読んできたのか。本を読んで生きてきた。そういう感覚。

 こういうのを考えて意味はあるのかな。大した意味はないと思う。でも、自分がどういう人間かを把握しておくとより生きやすくなるのは事実だと、私は思う。私はクラシック音楽とは縁遠い。嫌いではない。興味がないわけでもない。でも、毎月クラシックのコンサートに行った方が、行かないより体調が良いとか、そういうのは絶対ない。でも本当にクラシックを心から愛し、それが体の奥深くに刻まれている人なら話は別なのかもしれない。そういう話。

 興味深いのは、大体の人の要素というのは秘められているものということだ。フィクションのキャラクターならそうはいかないのだが…(むしろ、要素を単純明快に羅列することでそのキャラクターとはどういう人物なのかを、シンプルに説明する)。

 駅を歩いていて、すれ違いざま思いっきり肩を当てられたときとかに(悲しいけれど、生きているとそういうことがある。悲しいけど)「あの人の要素って何なんだろうな」と考えてみたりする。ま、それで許したりはしないですけども。「階段でこけて利き腕を骨折すればいいのにな」ぐらいは思っちゃうけども。それでも、要素のことを考えると「あの人も何かしらの要素はあって、それを大切にしていたり忘れていたりするのかな」という想像ぐらいは、できる。

街灯

ある休日の記録である。

夕暮れ時になり、私は自分に鞭を打つとガサガサと身支度をして外に出た。朝、出られない。昼、出られない。夜は寒いだろう。そして、今日は夜空を見たい気分でもなかった。夕暮れを逃すと、逃した分だけ私は自分のことが嫌いになる気がした。自信は行動しないと得られない。いや、行動した方が手軽に手に入れられる。

家々の間をまっすぐと伸びる裏道をひたすら歩く。人気は皆無。空は、ぼんやりとした赤、青、紫、灰とガスのような雲が混ざり合って心地よいグラデーションが生まれている。夕方である。

街灯が灯っている。鋭く強い白色光がこちらを見てくる。夜の道より夕暮れ時の方が光が強い気がして(強さは同じなはずなのに)イルミネーションより余程きれいだと私は思う。ポケモンリーグの最終戦みたいな演出だ(おそらくルビー・サファイアのチャンピオン ダイゴ戦前の長い長い道)。

歩いて歩いて、たどり着いたスーパーでカルピスの原液だけを買って、外に出たら夕暮れはとうにどこかへ消え去り、長い夜の始まりがすぐそこにいた。つまらなさを感じた。