私が中学生か、それよりもっと昔か「脳内メーカー」というものが流行した。今でいう診断メーカーと似ている。名前からその人の脳内のイメージを自動生成するという、根拠もなにもない、「くだらない」と切って捨ててしまってもいいもの(でも、こうして文章に書いているということは、切って捨てるわけではないということだ)。
私は当時からこの脳内メーカーというものにどこか惹かれていた。脳内メーカーの結果というよりも、脳内メーカーがやっていることに関心を抱いたのだ。つまり、私という人間を要素で説明するなら、どのように説明できるのだろうか、ということ。
人間というのはあらゆる要素の複合物であり、そのパターンは無限大だからユニーク(唯一無二)なのだと言える。小さい頃の私は「じゃあ、その要素が多ければ多いほど、多種多様であればあるほど、自分という人間は複雑になるということだろうか」と考え、とりあえず色々なことに関心を抱いてみようというのを己の暫定的な方針としたのだが、それはまあ、どうでもいい話だ。
エッセイを読むということは、書き手の要素を把握するのに結構便利だと思う。ということで、今読んでいる作家のエッセイから抱いた要素をノートに羅列してみる。ふむ。もちろん、私が書き連ねたことがすべてではないし、正確に人を見積もることも不可能なのであくまで暫定的な余興みたいなものだ。
その下に、おこがましいけれど自分の要素を挙げてみた。自分を構成する上で、なくてはならなかったもの。
- 泳ぐこと
- 食べること
- 体を動かすこと
- ノートとペン
- 本(not文学)
その作家の要素(私が勝手に考えたもの)の一番は「音楽」だった。音楽といってもポップスでもない。ありゃ、もう私とあなたは他人じゃん、となる(そういう話をしている)。
私は、音楽もアニメも漫画も映画もゲームも好きだけど(もちろん、めちゃめちゃ好きな人の熱量には遥かに劣る)好きだけど、自分を構成する元素みたいなものには挙げられない。それは私の核が作り上げられた、そのあとの話、という気がしてならないのだ。ゲームは特に小さい頃から遊んでいたはずなのに、それでももっと後期に位置づけたいもののようだった。
本というのも面白い。私は人並みより少しだけ本を読んでいると思うけれど、文学を読んできたという自覚には欠ける。じゃあ何を読んできたのか。本を読んで生きてきた。そういう感覚。
こういうのを考えて意味はあるのかな。大した意味はないと思う。でも、自分がどういう人間かを把握しておくとより生きやすくなるのは事実だと、私は思う。私はクラシック音楽とは縁遠い。嫌いではない。興味がないわけでもない。でも、毎月クラシックのコンサートに行った方が、行かないより体調が良いとか、そういうのは絶対ない。でも本当にクラシックを心から愛し、それが体の奥深くに刻まれている人なら話は別なのかもしれない。そういう話。
興味深いのは、大体の人の要素というのは秘められているものということだ。フィクションのキャラクターならそうはいかないのだが…(むしろ、要素を単純明快に羅列することでそのキャラクターとはどういう人物なのかを、シンプルに説明する)。
駅を歩いていて、すれ違いざま思いっきり肩を当てられたときとかに(悲しいけれど、生きているとそういうことがある。悲しいけど)「あの人の要素って何なんだろうな」と考えてみたりする。ま、それで許したりはしないですけども。「階段でこけて利き腕を骨折すればいいのにな」ぐらいは思っちゃうけども。それでも、要素のことを考えると「あの人も何かしらの要素はあって、それを大切にしていたり忘れていたりするのかな」という想像ぐらいは、できる。