冬の好きなところ

冬の何が好きって身軽でいられるところだ、と信号が点滅する横断歩道を軽やかに駆けていく。ほら、軽い。

身軽というのは、上着のポケットに財布やらスマホやら家の鍵やらカメラを入れられる、鞄を持たずに散歩ができるから。冬は散歩が捗る。春も秋もそれぞれの理由で散歩が捗る。夏だけ、夏の散歩だけ、私はちょうど良い着地点を見つけられていない。夏は控えめに言っても歩くのには暑いよね。

米津玄師の『死神』を聴きながら夜道を歩く。どちらかといえば夜に聴きたい曲(ミュージックビデオにも引っ張られている)で、カップ酒を煽りながら、そして酔いながら歩けたらいいのにと思う。私がもう一人いて、それなら実行しても良いと思う誘惑。私はなかなか酔うことができない、酔うことを躊躇う節があって、私のコピー体がいたなら代わりに酔ってもらいたい。

北に向かって歩いていると風がこれでもかと吹き付けてくる。寒さで顔が痛い。剥き出しの生身に1月の風は辛い。耳は平気、手も袖の中に引っ込めてしまえば平気。なのに顔だけが守られない。だから冬の散歩はお面が欲しいなと思う。

お面。プラスチックの薄いサバサバしたものではなく、木で作られた、冷たくて置けばことりと鳴る、そんな確かさを待つお面を私は欲しい。お面をつけていれば風に当たらず寒くないだろうさ。

でも。お面は簡単に複製できてしまう。私が私だとわかってもらえるのはこの顔があるからこそで、「顔」ってのは忌々しいが同時に素晴らしいものなのだろう。お面ならひょっとこ面がいいな(話聞いてました?)

ノートと万年筆

 なんちゃってモレスキンAmazonベーシックのノート)とプラチナ万年筆の組み合わせが悪くないということに気が付いたのは、2021年12月30日のことだった。

 その日私は遠い遠い場所にあるカフェにいて、ブレンド干し芋のタルトを目の前に物思いにふけっていた。

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 これまでの道中に見たものを記憶の海からひっぱり上げていく。旅にノートは欠かせない。チケット、パンフレット、レシート。「拾った」ものたちは、もらすことなくノートの裏表紙についているポケットに入れていく。段々と厚みを帯びていくノートに私は満足感を覚える。あとで旅のことを思い返すときに、集めた紙たちを取り出してあるものはゴミ箱へ、あるものはスクラップ帳に、選り分けていく。静かな作業。まるで網から引き揚げた美しい牡蠣の殻を分けていくよう。

 そんなことはさておき、ノートと万年筆についてだ。

 私はここ数年で文字を書くのが上達したと思う。もう少しまともな綺麗さ。平仮名の「は」の書き方が変わった。数字の2と5の書き方が変わったのは書いたと思う。あとは言葉の「言」の口の部分の書き方も変わった。何故そんなことがわかるのか。過去の日記を読み返せば瞭然です。

 「書くことが楽しい」という、今までも書いてきた事実を反芻する。ここ数日の私は疲れていて、正確には、新しい疲れ方をしていて、その為に新しいことを書く気にならない。だから回復するためにとにかく書く。何でも書く。書きたいと思ったら書く。

 Amazonベーシックは12月後半のお出かけラッシュで(私は魔法のチケットを買った、青春18きっぷと言う)随分とくたびれてしまった。表紙はところどころ剥がれ、角は丸くなりバサバサし始めた。本家モレスキンの耐久性について、私は自分の記憶をアップグレードできていないから(モレスキンは随分前に使っていたのだけど、かなり前の話だ)果たしてこの消耗が廉価版ゆえのものなのか判断がつかない。Amazonベーシックを使い終わった折にはモレスキンを買ってみようかと思っている。それはささやかながら未来のひとつの楽しみ。

 電車に乗ることの何が楽しいんです? 聞かれたことはないけれど、聞かれたとしたら何を答えよう。電車に乗って考え事をするのが楽しいのです。心に移りゆくよしなしごとを、そこはかとなくかきつくるのが、私にとってはとても楽しい、有意義なことなのです。それは「狂気」ですか、そんなことは無いですよね。

 

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 奇しくもまた海を見ていた。

スワンボート

 湖に行く、盆地に行く。私は大量に水があるところが好き、海然り川然り湖然り。一定量の水を見れば元気になるなんて単純でありがたい。

 今日見つけたもの。年始から腕を骨折したらしいお兄さん(電車で遭遇、腕を包帯で吊っていた)。ファミレスでモーニングをとる4人家族(お子さんはまだまだ小さい)。酸味が強めのセルフサービスのコーヒー。ヘラブナが釣れそうだと仲間に話しかけているおじさん。綺麗なブルーの瞳を持つ男の子。トンネルを抜けるとき耳がもわあとする感覚。笠を被った富士山。棚に整然と並べられたワイン。傾斜のある坂、そして立ち並ぶ住宅街。川の透き通った水面。紙袋を持った人がたくさんいる駅。カンカンカンと鳴りながら降りてくる踏切の遮断機(ぼさっとしていたから踏切内に取り残されそうになった、ほんと危ない)。車の往来激しい道で横断歩道を渡るタイミングを見計らっていたらわざわざ止まってくれた乗用車の運転手さん。席を譲ったら丁重にお礼をしてきたお母さん。

 書き連ねてみれば思ったよりあるな? ここには書ききれないほど。

  中でも一番はこれだろう。

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 湖のちょっとした波で揺れて、隣り合っているスワンボートにぶつかりガコンガコンと音を立てるハクチョウたち。ガコンガコン。乾いた素材の音。ワハー、と言いながら二、三枚写真を撮る私。人が乗っていればそんなに揺れないだろうし、そもそも人が乗らないから一所につながれているわけだし、人が乗っていれば、ね。寂しいね。でも、少し離れた別のボート乗り場からは年始からボートに乗る人たちがいて、世の中には色々な人がいる(スワンボートに乗る人と乗らない人)ものだなあと興味深かった。

インスタントコーヒー

コーヒーの濃い薄いがよくわからない私だが、もしかしたらインスタントコーヒーを作るのは好きかもしれないと気がついた1月1日だった。マグカップに粉を入れて、お湯をとぽとぽと注ぎ、スプーンで溶かし、ついでに砂糖もいれて、出来上がった黒い液体を飲む。その一連の行為が好きだ。コーヒー。言うてそこまで飲まないけれども、先日も書いた通り、コーヒーは熱いか冷たいかそれが大事な飲み物で、金属バットが白球を的確に捉えた時に手から腕に伝わる快感と同じように、ここぞと言うときに飲むコーヒーは最高に美味しいと思う。コーヒーには情景がついてくる。その守備範囲がとても広い飲み物だ。

 

日記にせよ、メモ帳にせよ、その日初めて書くときに、私はきまって赤ペンで日付を書く。2022年1月1日なら「2022.1.1」と書く(そういえばここ数年で数字の2の書き方と5の書き方が変わった)。私にとって新年が明けたことのただ1つの実感は、2022年なのに「2021.1.1」と書いてしまう、この手に染み付いた癖を自覚することで、当分は「2021.1.3」といったように、2021年を生きようとしてしまうだろう。そして、やがて私は2022年を生きられるようになるだろう。半月くらいかな、間違えたら2本の横線を引いてその上に「2022」と書く。

好きではないこの日に

 King Gnu『The hole』の冒頭の歌詞が好きで、思い出したように聴くことがある。

 晴れた空、公園のベンチで1人

 誰かを想ったりする日もある

 世界がいつもより穏やかに見える日は

 自分の心模様を見ているのだろう

 (King Gnu『The hole』)

 

 私はたぶん大晦日のことが好きではないのだと思う。随分と子供じみた物言いだね、と自分でも思うけれど、毎年毎年大晦日を持て余している。

 この1年どうだった、とかホントどうでもいい。そんな気持ちが半分と、でもこの1年どうだったか振り返りたいという衝動もあって、相反する二つの情動に引き裂かれ自分がバラバラになるような感覚に襲われる。

 買い物の帰り、川に架かる橋の真ん中らへん、欄干に凭れて暫く考え事をしていた。

 橋というのは媒介であり、橋の中央でボーっとしている私は、束の間、どこにも属さない人間ではないかという錯覚をもたらしてくれる。川は風の通り道。北から容赦なく吹き抜ける風は、不思議と寒くない。暴力的に橋の向こうに吹き飛ばされてしまう人もいれば、自ら橋を渡る人もいて、後者の手をぎゅっと握ってこちら側へ引き戻す、そういう連帯の力を今後人類はいかにして涵養できるか、というところがポイントのような気がしていて、大阪のビル火災の事件に関して気が滅入っているっぽかった。

 

 スーザン・ソンタグの『良心の領界』序文は、思考がややこしく鬱々としそうな時におすすめ。自分のことについて考えるのは極力減らすこと。

 

 そういえば、歩いている最中に「もう歩いてらんねーなー、寝っ転がりたい」と思うことがまあまあある。今まではぐっと堪えてちゃんと歩くようにしていたけれど、あまりに疲れてしまったので、いいや、上着を着ているし冬だし寒いし大晦日だし、と、買ったものを詰め込んだトートバックを下ろし川沿いのさっぱりとした芝生に寝っ転がる。いい感じの傾斜になっていて、芝生に腰掛け談笑している人たちもいるから(今日は寒くていないけど)設計者が想定した使い方をしている、はず。

 公園に行くのも好きだから休みに公園に繰り出すのだが、どの公園に行っても「芝生で寝っ転がっている謎の人」がいて、どうしてあの人たちは芝生で寝っ転がっているのだろうと、今日までは不思議に思っていた(中には半裸の人もいた)。

 が、今ならわかる。日向ぼっこは楽しい。

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 腕を伸ばしてコンデジで撮った空。雲一つない。

 で、空が青いこと以外に大事なことってあったっけ? 無いのでは?

 しばらく日に当たり「で、私は何に嫌になっていた?」と思えたところでむくりと体を起こし、私は立ち上がる。枯れた草が上着につき、払っているうちに良い意味でどうでもよくなってしまった。空は青いし、それでいいじゃないかと。大晦日? 知るかそんなこと。

 疲れやすい(当社比)私は、しかし、自分を癒す術も知っている。年々癒しのレパートリーを増やしているし、これからさらに充実していくだろう。だから大丈夫。生きて橋を渡ることができる。橋を渡るのはいつも怖いけれど、橋を渡るのはもしかしたら好きなのかもしれない。

 

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 あと頭の上が白い鳩を見つけたのだけど、何なんだ、ふわふわしているし、それは毛なのか?大丈夫か?病気ではないよな?(病気だとすると心配になるからそうでないといいのだが)と、笑っていいのかよくわからずとりあえず写真を撮った。

ホットケーキ

ホットケーキ

リンゴを砂糖で煮詰めたもの(シナモンをこれでもかと振り入れた)を種に混ぜ込みホットケーキを作る。最初の一枚は焼き過ぎて少し焦げた。料理をするときは本を読むことが多いので、例に漏れず短いエッセイを読みながら焼いている。と、だいたい要領が掴めてきて、その短いエッセイの半分まで読んだらひっくり返し、もう半分を読み終わったらもう一度ひっくり返せばちょうど良い塩梅の焼き加減になることを発見する。タイマーなど必要ないのだ。失敗したのは最初だけで、あとはうまく焼けたと思う。食べるとリンゴがしゃりしゃりと甘く、美味しかった。

 

待合室

今から思えば、そうか、大阪のビル火災の事件の影響だろうなあと思うけど、今日の夢は火災なのか通り魔なのか何かの化学ガスなのか、そういう物騒な時間に巻き込まれた夢だった。

救急車で担ぎ込まれたくせに、古びた待合室で順番を待つ私。そこには昔の知り合いがいて新聞を読んでいた(新聞を読むような人ではないのに)。待合室の壁の上の方は明かり取りの窓になっていて、そこから夕日が差し込み、なんとも言えない物悲しい雰囲気で、私は受付の人に自分の状態を懸命に説明する。そして夜になったところで夢から醒めた。

夢の方が現実より面白い。それが時々こわい内容であるのは残念だけど。

 

とても淡い恐怖

 横断歩道を渡るとき、私は車に轢かれる気がしてならない。

 車に乗っていても事故に遭う気がする。特に交差点を曲がるとき、直進の車にぶつかる自分を想像をする。電車はあまり思わないけど、鉄橋を渡るとき、カーブするとき、快調に飛ばす快速に乗っているとき、列車が脱線して次の瞬間ブラックアウトする未来。

 橋を渡るとき、崖沿いの道を歩くとき、クレーンで鉄骨を吊り下げる工事現場、駅の階段、泥濘んだ坂道、軸が折れた観覧車、脱輪する大型トラックの車。思い浮かべるは最悪の想像ばかり。でも日常生活を送るのが困難になるほどではない、淡い淡いこの恐怖は、もはや恐怖を名乗るほどのものでもなく、強迫観念と呼べるものでもない。

 ただ、そういう恐怖もあるのだと、他ならぬ私は覚えていたいなと思ってこうして書いている。他の人は怖くないのだろうか。聞いてみたことがないけれど。今度誰かに聞いてみたい気がする。悲しいけれど、結局死ぬときは死ぬのだ。いちいち過剰に恐怖していても仕方がない。