好きではないこの日に

 King Gnu『The hole』の冒頭の歌詞が好きで、思い出したように聴くことがある。

 晴れた空、公園のベンチで1人

 誰かを想ったりする日もある

 世界がいつもより穏やかに見える日は

 自分の心模様を見ているのだろう

 (King Gnu『The hole』)

 

 私はたぶん大晦日のことが好きではないのだと思う。随分と子供じみた物言いだね、と自分でも思うけれど、毎年毎年大晦日を持て余している。

 この1年どうだった、とかホントどうでもいい。そんな気持ちが半分と、でもこの1年どうだったか振り返りたいという衝動もあって、相反する二つの情動に引き裂かれ自分がバラバラになるような感覚に襲われる。

 買い物の帰り、川に架かる橋の真ん中らへん、欄干に凭れて暫く考え事をしていた。

 橋というのは媒介であり、橋の中央でボーっとしている私は、束の間、どこにも属さない人間ではないかという錯覚をもたらしてくれる。川は風の通り道。北から容赦なく吹き抜ける風は、不思議と寒くない。暴力的に橋の向こうに吹き飛ばされてしまう人もいれば、自ら橋を渡る人もいて、後者の手をぎゅっと握ってこちら側へ引き戻す、そういう連帯の力を今後人類はいかにして涵養できるか、というところがポイントのような気がしていて、大阪のビル火災の事件に関して気が滅入っているっぽかった。

 

 スーザン・ソンタグの『良心の領界』序文は、思考がややこしく鬱々としそうな時におすすめ。自分のことについて考えるのは極力減らすこと。

 

 そういえば、歩いている最中に「もう歩いてらんねーなー、寝っ転がりたい」と思うことがまあまあある。今まではぐっと堪えてちゃんと歩くようにしていたけれど、あまりに疲れてしまったので、いいや、上着を着ているし冬だし寒いし大晦日だし、と、買ったものを詰め込んだトートバックを下ろし川沿いのさっぱりとした芝生に寝っ転がる。いい感じの傾斜になっていて、芝生に腰掛け談笑している人たちもいるから(今日は寒くていないけど)設計者が想定した使い方をしている、はず。

 公園に行くのも好きだから休みに公園に繰り出すのだが、どの公園に行っても「芝生で寝っ転がっている謎の人」がいて、どうしてあの人たちは芝生で寝っ転がっているのだろうと、今日までは不思議に思っていた(中には半裸の人もいた)。

 が、今ならわかる。日向ぼっこは楽しい。

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 腕を伸ばしてコンデジで撮った空。雲一つない。

 で、空が青いこと以外に大事なことってあったっけ? 無いのでは?

 しばらく日に当たり「で、私は何に嫌になっていた?」と思えたところでむくりと体を起こし、私は立ち上がる。枯れた草が上着につき、払っているうちに良い意味でどうでもよくなってしまった。空は青いし、それでいいじゃないかと。大晦日? 知るかそんなこと。

 疲れやすい(当社比)私は、しかし、自分を癒す術も知っている。年々癒しのレパートリーを増やしているし、これからさらに充実していくだろう。だから大丈夫。生きて橋を渡ることができる。橋を渡るのはいつも怖いけれど、橋を渡るのはもしかしたら好きなのかもしれない。

 

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 あと頭の上が白い鳩を見つけたのだけど、何なんだ、ふわふわしているし、それは毛なのか?大丈夫か?病気ではないよな?(病気だとすると心配になるからそうでないといいのだが)と、笑っていいのかよくわからずとりあえず写真を撮った。