水仙

 図書館が開くまでに延滞していた本を返却したかったので、北風吹き抜けるよく晴れた休みの朝、勤勉に外に出る。今日は特に寒い。風が冷たい。どうして地球はこんなにも寒いのだろう(そして半年もすれば真逆なことに対して怒ることになるのだが)でも、寒いのは努力すればまだ何とかなる、私が生き物である限り、そりゃあ、-50℃になれば努力でどうにかなることではないけど、と前向きにこの寒さを捉えようと頑張る。事実、私の住む地域は動いていれば寒さのことなんて忘れるくらいのそういう気温なのだから。

 無事に本を返却し、このまま帰るのもつまらないとコンビニに寄る。野菜ジュースとスナック菓子を買う。結局このクリスマスはチキンを食べ損ねたのでそれも買おうか迷ったが少し重たいと思ったのでやめておく。食べたいときに食べたいものを食べるのが一番いい。コンビニを後にして散歩にはちょうどいい道を歩き始める。野菜ジュースにストローを通しズズズと飲む。野菜ジュースは嫌いじゃない。朝、散歩、野菜ジュース。結構なことではないか? これが、朝、散歩、緑茶、ではちっとも面白くない。ただそれだけのこと。

 ふと、学生時代の同級生に「治野さんは寄り道好きそう」みたいなことを言われたのを思い出す。記憶を都合よく改竄しているだろうが、まあ、そんな趣旨の内容だ。私はその幻想のような不安定な言葉をお守りみたいに大事にする。寄り道好きそう、なんてめちゃめちゃ誉め言葉じゃないですか? 少なくとも私にとっては誉め言葉。褒められるように(自分を褒めるために)私は寄り道をたくさんしたい。

 散歩。歩くという行為は三種類に分けられる。1.移動手段、2.目的、3.手段でも目的でもないもの。野菜ジュースを飲みながらの散歩は3に該当する。まあ、家に帰る為に私は歩かなければならないが、その手前、ほんの少しだけ私は移動手段からも目的からも解放される。今の気分に最高に似合う曲を選んで、人気のない道を時にはくるくると回転してみたりして、そして甘いジュースを飲む。そんな散歩の時間は幸福だと感じる。なかなか意図して得ることは難しく(大概は時間に追われている)柔らかくないと無理だ。今日は調子が良かったのだろう。

 道の途中、群生する水仙を見つけ、私は帰らなければいけないと思った。その瞬間、幸福な時間は一旦終わりを迎え、私は時間のしもべに成り下がる。

参拝

 とある神社へ。特に年末詣のつもりもなければ、最低限のお参りをした上で何か買うこともなかったが(後述の三食団子を除く)ほどほどの人手でかなりゆったりとまわることができたと思う。参道から一本逸れた道には私以外誰もいない。

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 なんというか、自然のスポットライト。今朝方まで降っていた雨のせいか、空気中に水分が残っているような、日が高く上るまではもあもあしていたように思えた。目を凝らせば潜んでいる何かを見つけられそうな、この場所では人間ではなく人間以外の何物かが絶対的な力を持っていること、突き付けられる、そういう厳粛な雰囲気。

 

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 やばそうな色をした蜘蛛もいた。

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 境内の日の当たらない場所にひっそりとある(けれど中は人で賑わう)茶屋の前に差し掛かる。炭火を囲うように立てられた鮎、団子。寒い中女性が火加減を見ていた。三食団子450円也。迷うなあ…。でもなんだか美味しそうだ。ここは己の直感に従い、三食団子を注文することにした。売り子の女性がどこからともなく皿を取り出し、よもぎ(緑)にはあんこを、よくわからないけど、なんだろう、黄色の団子にはきな粉と黒蜜をかけ、私に差しだす。店内で食べることも可能ということで、無料の温かい茶もセルフで汲み、手ごろな席に座って小休止とする。

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 これがべらぼうにおいしくておいしくて、私は感激してしまった。「旅だから」効果もあると思うけれど(それに朝はコンビニのおにぎり1個しか食べていなかったからひどく空腹だった)それにしてもおいしかった。特に味噌団子。こっくりと濃い味付けの中に甘さと塩辛さの絶妙なバランス、そして味噌だれとプレーンの団子の相性の良さ。良かったあ、この団子で、と今日の旅の成功を確信する(旅が失敗に終わったことなどないのだけど)。口に持っていくとき、少し呼吸をするだけできな粉が辺りに舞ったのが面白く、食べるのに少々てこずったがそれもまた良き。

 

 その神社の鳥居があるというのでついでに川を歩いて渡ることにした。

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 なかなか荘厳な眺め。厳島神社の鳥居はとにかくたくさんの人で賑わってた場所だけども、この鳥居を見に来る人はほとんどいない。同じようなものだと思うけどな。人が少ないほうがいいや、と私は思う。

 川を渡る。

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 それなりに長い橋なのだけど渡るまでの間私以外の通行人はいなかった。横で車が激しく往来している。この橋に行くまでの道のりで「震度5弱の地震が発生した場合は通行止めとなります」という看板を二三枚見かけて、渡るか渡るまいか逡巡したことはきちんと書いておこう。まあ橋が陥落しても(そんなことがあったら大事件であるが、私は悪い事態を想像しがち)背負っているリュックを犠牲にすれば自分は泳げるし大丈夫かなどと考え、結局渡ることにする。橋を渡るとき、いつも自分が川に落ちることを想像してしまう。今までたくさんの橋を渡ってきたが落ちたことはない。

 

 元々予定していなかったところを回ったせいで計画が狂い(というか計画変更した際に電車のことを考慮してなかった)ニアミスで電車に乗り遅れ、さらに次の電車は1時間以上待つというのだから、もう一駅先まで歩くことにする。1時間歩くことが苦ではない性格で本当に良かった。そもそもそういう性格だからこんな無茶な行程を組んでいるともいえるが、にしても、疲れない限りはいつまでも歩くところは自分の良い部分だと感じる。

クリスマスプレゼント

自分の言葉に価値はないと思うとき、どうして落ち込むのだろうということを考えている。私の言葉に価値があると言われたとして、それを真正面から受け止められないのは何故だろうということも考えている。

 

喋りたくないから喋らない。そういう強さが欲しい。クリスマスプレゼントには頼まない。何故なら自分で叶えられることだと思うから。

 

泣き方

退屈

電車に揺られながら、ふと自分は退屈なのだと思いその考えに少しだけ動揺する。書くことの理由は様々だけれども「退屈さを紛らす」という目的もあったことは確かだ。退屈にも種類があって、良い退屈と悪い退屈なら今日のは後者だった。悪い退屈には、魔が虚が忍び込む。からだが強ばり心が弱り頑なになり、じきにボロボロになる。そこから立て直すのは幾ばくかのエネルギーが必要で、時間が勿体ない。他にやるべきことが、やりたいことがあるというのに退屈だとは、そういうタイミングなのだろう、明日には直るだろうか、とひとしきり考えたところでそこにあるのは悲しさで、ええい、空白を埋めよ!と読みかけの太宰治をめくればこれがめちゃめちゃに面白くて「なーんだ、世界おもしろ」になるのだから我ながら単純だ。結局、セーフティネットの種類と数を多くしできる限り多層化するのがいいということだろう。

 

悲鳴

鋭く激しく身を裂かれるような、この世のものとは思えないつらい音がホームいっぱいに駆け抜け、身を強張らせた私は、悲鳴の主を探した。何事もない。平然と電車に乗り込む乗客たち、そこで私は今の悲鳴が、ホームに侵入してきた車輪とレールの摩擦で起こる音なのだと気づいた。乗り遅れないよう電車に飛び乗った。

電車は止まるたびに泣き叫ぶ。その度に私は胸が痛む。誰かの代わりに泣いてくれているのだろうと思った。もしかしたら私の代わりかもしれない。目の前の席で厚ぼったくアイシャドウをはたいた女の代わりかも。あるいは? でも、他ならぬ私が私の泣き方をわからないというのに、私以外の誰かの方が私の泣き方を知ってくれているなんてことがあるのだろうか。

 

クロワッサン

定時間際、トラブル発生、頭をフル回転させて今日できるところまで終わらせる。頑張った。すごいぞ私。ぎゅーんと高負荷のCPU、出力された結果と引き換えに消耗した私。頭が鈍く痛むし動悸がする体調が悪い。と、そういえばクロワッサンの存在を思い出す、良いところのクロワッサンをどこかで食べようと鞄に忍ばせていたのだ。わーいわーいと、人気が少ない夜の道、もういいや、お腹すいたしと、歩きながら小さくちぎって口に含む。中の水分は一気に失われ、その奥、香ばしさの陰に淡い甘さが。幾分回復して帰宅する。

ポケモンカード

 食玩売り場でたまたま見つけたポケモンカードの拡張パック「フュージョンアーツ」のグミを買って家に帰ってから開けるとヤブクロンというポケモンのカードが1枚入っていた。グミはグレープ味のモンスターボールを模した円形で、今まで食べたどのグミとも食感が異なる不思議な弾力だった。ヤブクロン?あいにく最近のポケモンは知らない。でも絵が可愛い。ポケモンカード、略してポケカポケカを集めるのも一つだなと思ったものの、ポケモンカードがどこに売っているのか私は知らない。ポケモンカードはどこで手に入れればいいのだろう。

 そう、カード。そしてA4の紙。多分私は、バラバラだとか多種多様だとか、そういうのが好きなのだろうと思った。小学三年生の私にとって、クラスメイトは集合体ではなく個であってほしかったのだけれど、どうも一つひとつの個は群れたがる、私はそれが気に食わなかった。一人ひとりのことはそれほど嫌いではないのに、集合した途端得体のしれない存在になる感覚。だから私はカードが好き。紙が好き。それはバラバラだから、群れることがないから、群れてもカードはカードで紙は紙だから。

 ここ数日はカードについて考えている。

何も無さ

眠い。当たり前。寝ようとしている時に書いているのだから。

今日は自分が書いたこのブログの記事を読み返して、好きなものとそこまで好きでもないものとに分けたら、好きなものはそこまで多くなく、好きでもないものの方が当たり前に多かった。基本的に私は自分の書いたものを肯定しているが、私の文章より好きなだれかの文章はたくさんあるわけで、まったくその差は何なんだい!となった。自分でも自分が気にいる文章がわからない。さらに他人が好きな文章も尚のことわからない。わからないから、まあいいや、好きに書くか、となる。そもそも好きとか嫌いとか、そういうことで書いているわけでもあるまいし。

多分この文章は「好きでもないもの」になってしまうだろう、そうとわかっていながら書かないと満足ならないこの性質といったら!とりあえず空白を埋めたくなってしまうのかもしれない、一日をただ一日として終わらすのが我慢ならないのかもしれない。一日一投稿が絶対なわけでもあるまいに、私はなるべく毎日投稿したいと願っている。

今は「何も無い」感じで、そのことに対して私は危機感を持っている。第二フェーズ、始まる。第一フェーズは?いや、第二フェーズが妥当なのかしら、第三フェーズではなくて? 最近ようやく終わった気がするのだが、何が終わったかもわからないし、そもそも終わったかどうかもわからない。ただ、長い季節が終わった。

何も無いから、何も無いなんてことがないようにしたい、次はそういうフェーズ。いや、元々そんな考えではあったけど、また違う何も無さ。

海へ

 海へ。

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 波が寄せる瞬間、しゅわしゅわしておった。

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 ビールの缶をぷしゅーと開けてぐびりと飲むと美味しそうだなと思ったが、あいにく私は炭酸は飲めない。

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 角が取れすべすべと滑らかな石がたくさん転がっていた。そのうち、二三個よさそうなものを見繕ってジーンズのポケットにしまい込んだ。持って帰る。

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 「海を見ていると飽きないの」

 こんな言葉は、確か『孤独のグルメ』のドイツ料理回だったと思う。私も同感だ。海は飽きることがない。波は刻々と変化する。一瞬たりとも同じ時はない。海を対峙するとき、特に何かを考える必要がない。自分を貶める必要もなければ、他人のことを考える必要もない。海はそこにあり、私もここにいる。そんな感じだ。

 あの青い海の下には本当にたくさんの生物が漂っていて泳いでいて、そのことを私はとても面白いと感じる。土にもたくさんの微生物がいるわけだけれど、陸で町で生活している限り、生き物の存在は薄い。というか、そういう風に意識しないで生きざるを得ないということだと思うけれど。

 海に行くつもりはなかった。海を見られたらいいなとは思っていたけれど。その偶発性みたいなものが「旅」の醍醐味で、私は電車に乗って遠回りして、できる限り歩きできる限り休んだ。海を見ながら干物を食べ(泣きたくなるほど美味しかった)駅のホームでコンビニのおにぎりも食べた。

 

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 西日で金色に輝く海は、「神々しい」という言葉がよく似合っていた。