中華そば

 今日は起きるのが遅かった。日頃の疲れが溜まっているのだろう、自分の生活を自分でコントロールしているという感覚が希薄になっている。昼頃まで布団から出られない。流石にそれはまずいと思い、腹を空かせるために12時30分、私は外に出る。小一時間ほど歩いて、それから近所のラーメン屋に行こうと思った。過去の私が(手帳には10月26日と書いている)久々に食べたいと思ったラーメン屋だ。
 北に向かう。風が絶えず吹き付けてくる。すっかり冬になってしまった。あの理解に苦しむどっぷりとした暑さはどこに行ったのか、どうして今、こんなにも寒いのか、混乱する。それでも歩くうちに寒さは消えて、日の光の暖かさが目立つようになる。冬、日の光。とろとろと眠たくなってくる陽気。信号が青になった横断歩道を渡ろうとすると、右折の車が容赦なく進入してくる。私は足を止める。車が目の前を通り過ぎていく。私が運転手ならちゃんと歩行者を待つけどなあ。どうしてそんなに急ぐのだろう、歩行者を待ったとて、あなたが失う時間は微々たるものなはずなのに。車を運転していて思うのだけれど、本当に乱暴な運転をする人が時々いる。私には、よくわからない。
 お腹が空いた。もう少し歩くつもりだったけれど、散歩は中断してラーメン屋に向かう。ピークは過ぎているはずだけれど、少し列ができていたので並ぶ。読みかけの『中動態の世界』を開く。一つのまとまりを読むと本を閉じ、しばらくしてまた本を開いて読む。それを繰り返す。リハビリ、リハビリ。無理はしない。期待もしない。読書という行為を瞬間的に楽しむ。そうこうしているうちに店の中に入る。中華そばの食券を買う。ランチタイム中は一品無料と言うことで、肉めしを注文する。これは反省だけれど、白飯の方がよかった。肉めしはもちろんおいしかったけれど、ラーメンのスープをご飯に回しかけ、レンゲですくって食べるのが好きだということを、私は忘れていた。
 忙しないことが原因で心身の調子がよくなく、調子がよくないときは温かいものを食べるに限る。ラーメンを食べようと思っていた私は偉かった。素朴な中華そばの温かい汁は、私を癒やす。別に家で即席麺を作ってもいいんですよ、作れますよ。でもちがうのだな。厚くて重さのある白の器に醤油スープ、レンゲ、とろとろのチャーシュー、どっさりと盛られた白髪ねぎ、平打ち麺、なると。そういうものを家だと演出できない。調子の悪さに効くのは手間のかからない安い麺じゃなくて、ほんの少しの選択の結果得られる、他者性みたいなもの。刺激なのだと思う。少なくとも私にとっては。だけれどそれを得るには外に出なければいけなくて、調子の悪いときは外に出ることってめちゃめちゃしんどいのよね、と思う。
 丁寧に食べることを心がけた。誰かが私を見て「あの人おいしそうに食べるね」と言ってもらえるように食べた。これもまた私のちょっとしたリハビリ。
 腹が満たされて、私は店の外に出た。依然としてラーメンを食べるために待っている人がいて、太陽は頭上でぽかぽかと世界を照らす。休日は続く。この2時間ぐらいは、生活は私の手中にあった。自信が持ててうれしい。