斜め上に運ぶこと

 数年前から行ってみたかった低山を登りに行く。

 やってみたいこと、行きたいところ、食べたいもの。その多くに、タイミングというものがあって、心がそちらに向いたときになるべく行動するようにしている。逆に言うと、ちっとも心が振れないときは無理にそれをやらない方がいい。食べたいときに食べるのが一番おいしいのだと、私は信じている。

 車も通れる幅の道を延々と上っていく。本当にずっと上りだったと思う。1時間かからないぐらいの上り坂。楽しい。頂上にたどり着きたいわけではなく、今、この足を前に出して体を斜め上に運ぶこと、そこに喜びを見出さなければ、山に登っていられるか、と思うのは、そのまま人生に適用できることだろう。

 山頂近く。山々の濃いところ、薄いところ、陰影のついた稜線が美しい。

 

 四阿でコンビニのざるそばと塩むすびを食べた。山頂を示す看板を記念に撮り、奥宮を参拝し、数十分前に上ってきた道を下った。ここまでの道中、ずっと上りだったということは、帰りはずっと下りで、終始足首に負担がかかっているような気がした。時々、足首の筋にぴきっと嫌な音がした。家に帰ったらストレッチをしないとな、と思いながら、足元に注意して下っていく。ここで捻挫でもしたら惨事になる。

 せっかくの緑ゆたかな場所なのでこれは野暮だなと思いつつ、帰りは好きな音楽を聴きながら下った。特に「もののけ姫」のサントラのうち、アシタカが村を離れる時の曲が良かった('旅立ち~西へ~')。幼少に観たスタジオジブリ作品は、どれも細胞レベルに浸透してしまっている。山への畏敬の念。人間に対してあまりに巨大な存在であり、どんなに高い塔を作ったとしても、山の高さにも幅にも敵うわけがない。山や海に出かけると、自分がかかずらうことは、所詮はめちゃめちゃ頭で考えたことでしかない。思い知らされる。

 

 山自体がご神体なのだろうか、ふもとの神社まで下りて、行きにだらだらと上った参道も下る。登山道に比べ人が多い。川も見たかったけれど観光客で賑わってそうだったので、数駅離れた場所で途中下車して、橋の上からゆっくりと川を眺めることにした。

 

 このころになると、私にはもう何も考えることがなかった。大抵のことがどうでもよく、空っぽである。疲れて、休んで、また何かを始められるだろうか。明日の私に委ねたいと思う。