短歌と俳句(2022年5月)

2022年5月の短歌と俳句。

エッセイ的な日記的な文章を書くのが楽で好きなことではあるけれど、短歌だからこそ俳句だからこそできることもあるだろうし、同じことでも表現の違いで出力が変わり結果的に味も変わることがあるだろうと考えている。じゃあ、短歌も俳句もやってみればいいのでは、という考えで最近短歌や俳句も詠むようにしている。やりにくい。するするとは出てこないが、滑らかな出力になった暁には人生楽しそうだなという、種を蒔く感覚に近い。続けばいいのだが。

 

自分との約束交わし生を得る明日の昼はカルボナーラ

明日の昼はカルボナーラを作ろう、そういう霞のように心もとなく不安定な願望でどうにか生きている、みたいな歌。だいぶ安定してカルボナーラを作れるようになったと思う。卵とチーズとパスタでカルボナーラは作れるよ。牛乳も生クリームも不要だよ。

 

電車待ちふるふるゼリーを振るおじさんからだもふるふるすればいいのに

新宿らへんのとある駅で電車を待っていたら、少し離れたところに立っていたスーツのおじさんが缶ジュースをふるふる振っていて、それを詠んだ歌。からだもふるふるしたらいいのに。それにしてもすぐ電車は来てしまっておじさんがふるふるゼリーを飲んだのかどうかは知らない。

 

斜め切りちくわを一つまた一つ並べる私はこれから儀式

ぜひ試してほしいのですが、ちくわを斜めに切ったのをフライパンに並べてからりと焼くと人間の人差し指に見えなくもないです。なんだか自分、魔女っぽいなと思ってそれを詠みました。

 

疲れたら小エビのサラダをたべればいいだって好きでしょあの愛らしさ

瑞々しい菜っ葉の上に散らされたいわゆる「小エビ」とされるぷりっとした小さなエビが好きです、たべれば元気になってしまうくらいに。いや、好きでも食べて元気になるかどうかは別問題かもしれない。私は小エビが好きで、小エビをたべると元気になる人間。たまにたべると嬉しい。三年に一回くらいでじゅうぶん。

 

白詰草爪のかけらが詰まった花

私はシロツメクサが群生している風景が好き。拡大してみるとシロツメクサの小さな花(その集合体)は切った人間の爪に見えなくもない。特に足の指。

 

「夢で人殺した」なんて言ってみてなーんちゃってとコーヒーを飲む

夢の中で知らない人を刺して殺しちゃったみたい、と言ったらスルーされたので、仕方なくアイスコーヒーを飲んだ歌。説明含めどこかに嘘が混ざっているのだけれど、さて、それはどこでしょう。

 

然るべきときに口つけ飲みほして生きているっていう飲みもの

アクエリを然るべきに飲むと生を感じる。

 

権利でも義務でもなくてこの道を一人で歩くこの楽しさよ

権利でも、義務でもない。必要性もない。ただ歩くということの楽しさ。

 

青い空 波打つ川面 走る風 今ならENDが降りてもいいな

歌の通り。エンドロールが始まってもいいな、と思える景色に時々出会う。残念ながら(残念なのか?)今回は終わらなかったけど。

 

五月晴れ 俯く視線の先の先 倒れて仰ぐ空を絶望

本当は「倒れて空を仰ぐ絶望」だったけれどつまんねえなと思って順序を入れ替えてみた。もう少し違う表現ができたらよかったのに。五月の晴れの日は気持ちがいいなという思いと、スカッとするような絶望が同居している感覚。アスファルトに大の字に寝転びたいと思うことしばしば。

 

ごまちゃんを抱えてお出かけしたかった 店内駆ける 幼子に思う

ぬいぐるみに思い入れのない子どもでした。何処へ行くにも大きなぬいぐるみを小脇に抱えて出かける子どもになりたかったなと思うのだけど、戻れたところで多分できないのだろうという、分厚い壁のようなものを感じます。

 

ひるめしに食べたカップ焼きそばの味を忘れた どうでもいいな

忘れたカップ焼きそばの味についてはどうでもいい。しかし、カップ焼きそばの味を忘れたことはどうでも良くない。