レポートパッド

 買いたい新書があったので書店に赴く。手っ取り早く検索機に著者名を入れると、ステータスは「残りわずか」とのこと。私も人間なので該当の本棚に向かう足ははやくなる。今この瞬間来店しているお客さんの中で私の買いたい本を買いたい人がいるとは思えないが。頭ではわかっている。が、歩く足の速度は緩むことがない。

 壁沿いの本棚の高さは天井近くまであり、どうやっても届かない。目当ての本は本棚の一番上の棚にある。そこら辺にあった脚立を運んできてその上に乗る。自分の体をぐっと持ち上げる感覚。日常的な動作として珍しくはないはずだが(階段とか、階段とか、階段とか)妙に新鮮だ。場所の所為か。体を持ち上げているのだ、という感覚が強い。

 無事に本をゲットすることができた。本棚には、先ほどまで綺麗に収められていた本一冊分のスペースができている。空白であることで逆に存在感が生まれているその不思議。

 そう、だから、私のお目当ては本なのであってレポートパッドではなかったのだ。ただ、なんとなく眺めていた文具コーナーで「良い感じの」レポートパッドがあって目が合ったからには買わないと、というだけのこと。

 良い感じの。エトランジェ・ディ・コスタリカの黄色表紙のレポートパッド。罫線タイプ。左に縦の線が入っている。線によって紙が縦に1:6くらいに分割される。用途は様々。見出しとしても使えるし語彙を書き留めるのにも使える。私は日付と時間を書いている。その通り。買って早々使い始めている。用途は作ればいい。仕事も生み出せばいい、という論理。自動化技術が進んでも人の労働時間は減ってないと言い切るのは難しい。比較対象をどこにするかという問題もある。産業革命の頃よりは人々の労働時間は減っているという。本当かな。工場労働者はとにかく四六時中働いていた。ああ、メモパッドに話を戻す。ノートはたくさんあるというのに! 私はこの期に及んでさらにノート(みたいなもの)を増やすのか。またノートが増えている。日記、メモ、ことば、短歌とかを書き留める用、漢字をひたすら書くやつ、読書録(最近使ってない)、料理ノート(最近始めた)、勉強用、他には? 我ながら狂気じみている。多分頭にある分野ごとにノートを作らないと気が済まないのだろう。デジタルツールを使えという話はごもっとも。でも手書きが好きなのだ。好きだから仕方ない。

 レポートパッドに何を書いているかというと、色々だ。日記につかっているノートはほぼ無地に近い方眼紙なので、時々やってくる「.罫線にただひたすら文章を書きたい」という衝動をぶつける先がなかった。私の速球を受け止めるだけのキャッチャーミット  is レポートパッド、になり得るかは今後次第。私のことだから飽きるだろう。細かく分けて分けて自分で作ったその役割分担に嫌気がさして、ぶっ壊して、を繰り返してきたのだから。そのうち大規模な統廃合が行われる気がしないでもないし。結構気に入っているのでそのまま運用フローにのせたいレポートパッドである。廃番になったら悲しくなりそう。いいや、いいや、そういうこだわりはやめよう。自分に言い聞かせる。