緑はいい色

PILOTのDr.GRIP 4+1を使っている。黒が通常、赤は日付と取り消し線、青は知らない用語、緑は自由な私のコメント、だからノートやメモに緑色がたくさんあると豊かな気持ちになる。どうして? ただ受け身で書くのではなく、私と書いたものとの間に会話が生まれるから。緑であるということは、それだけ私が主体的にそのことについて考え咀嚼しようとする証左なので。

出奔経験者より

出奔。逃げ出してあとをくらますこと。

私はこれまで「出奔だったな…」と自覚する逃走を3回ほどしたことがある。多いな。あくまで自分が思う「出奔」なので、他人からすると「いやいやそうでもないよ」と言われるものを含んでいることに留意したい。とにかく3回だ。

弁明しておくと、いずれも多大な迷惑をかけた末になんとかなった(なんとかしてもらった)ものであり、最後は私なりに終わらせたわけだが(逃げっぱなしではないから、厳密に言えば出奔ではない)それに伴う消耗と負い目は今後も私の中に残り続けるだろう。

ポジティブに捉えるなら、この三度の経験を経て、私は多少なりとも良い方向に変わったと断言できるし、自分の御し方も学んだ。自分が信用ならない人間なのだということも痛感した。

これらの経験から、ある人間にとっては「逃げる」ということが苦しいことであることを知った(逃げることに抵抗がない人もいるだろうことも想像はできる)。適切なタイミングで逃げることができず、自縄自縛に陥り、逃げられなくなった末爆散することの悲しさよ。私が何かにつけて「終わらせることは難しい」と思うのも、この辺りの実感から出てくるものだ。

こんなことを今になって書いているのも、仕事関係で出奔に近い退場があり、その引き継ぎでてんやわんやしているからだ。本人の胸中はいかに。私には推測することしかできないし、それが当たっている可能性は高くない。私は「祭りじゃ祭りじゃ」と火消し作業に追われている。非日常としての祭り。これを楽しいと言ったら、不謹慎だろうか。

誰かが謝り、誰かはさらに仕事を負担することになるだろう。その人が出奔に近い退場をすることになった責任は、その人にだけでなく周辺の人すべてにあると思っていて(そこに私も含まれる)一方で、当人に対しては「いいのかお前…それは自分への呪いになるぞ」と念を飛ばしていたりする私だ。私は、何事にもそれ相応の報いというものがあると信じている人間だ。今からでもいい、少しでもましな状態に軟着陸する気はないか?

 

昔の話をしよう。

私の場合は、自意識がFFシリーズのボムのようにぶくぶくと膨らんでいき、破裂してショートしてしまった感じだった。あらゆるものの破壊だった。戻れなかったし、戻りたくなかった。

あの状態の私に声をかけるならなんと声を掛ければ良いか。まずは武装解除だろう。責められることはわかっていた。その責めを負うべきだとも理解していた。が、誰も(私自身も)私を救えなかったことに絶望していたから、甘いとは思うけど「あなたを責める気はないし、一旦ゆっくりおいしいものでも(ケーキでも)食べて、あなたとお話がしたい」と言いたい。実際、私はその件に限らず、私というものについて誰かに話を聞いてほしかったのだ。

だいぶ「出奔」していない。もう二度とやりたくない。

また同じことをしてしまうかもしれないという恐怖は今もある。「発症」しないためのケアを徹底している。薬物やアルコール依存の治療が他人事ではないのは、その回復のステップに何か近しいものを感じるからだ。回復し続けること。終わりはないこと。

 

季節は春である。行く人去る人さまざまが行き交うこの季節が、私は端的に言えば嫌いになって(人との出会いや別れがなければ好きだと思う)「春ですなあ」としみじみしている。とりあえず今日はよくやったので、カフェオレでも飲みたい。

ダメージ

 前日にとても歩いた。iPhone歩数計によるとトータル25キロとのこと。よく歩いた。慣れればもっと長い距離を歩けるだろうと思う。翌朝。長い散歩のダメージが如実に表出している。寝る前にストレッチはしていたけれど、それではカバーできなかったようだ。フルマラソンの翌日もこんな風だった。朝の散歩をしながら点検していく。両足の足首の前部分の筋。背中から腰。何故か首(これは散歩のせいというよりは、寝違えによるものか)。体じゅうに広がったうっすらと柔らかい痛み。明日はこれよりさらに回復していると嬉しい。今はまだ「回復するだろう」という予測が立てられるが、いずれはその予測も修正せざるを得ない日がやってくると思う。とりあえず今は、痛みが引くことを願っている。

慣れてない

夜道を歩いていたら白い何かが歩道の真ん中に見えて、死体を警戒する私は身構え、それでもペースを落とさず近づくと、白い何かは猫のようで、しかしまだ冬が居座る寒い夜に、道路の真ん中で、足音が近づいているのに、ちっとも動かない猫は、多分息絶えていた。私はそのまま通り過ぎる。他にどうしろってんだ。立ち止まれば良かったかな、でも怖かったんだよな、違うな、嫌だった。死というものに慣れてないな、死が身近じゃない社会に生きているな自分は、ということを、歩きながら考えていた。

ツイストパン

 今日は休みだ。朝から出かけない日は、朝に少し散歩をする。もっと暖かくなったとき、それがどうなるかはわからないけれど(あるいは去年の私はどんな風に過ごしていたか)いずれにせよ、今はそういう風にやっている。

 少し歩いたところにパン屋があるのは知っていた。今日はそこへ行ってみようと思った。

 いつもは行かない方向に、いつものように音楽を聴きながら歩いていく。

 よく晴れていたから出かけても良かったと思いつつ、ここ数日(私の中では)よく運動していたもので、疲れているように思えた。なので今日はお休み。

 少し歩くと、道に幟が立っていてはためいている。「パン」と書いてある。左の小道に入れ、ということらしい。言われた通り(実際に幟がそう言ったわけじゃないけど)曲がると、お目当てのパン屋はそこにあった。営業中という小さな立て看板も立っている。マスクをして、白いドアを引いた。

 ラックに様々な種類のパンが並んでいる。ラックの上にはチョコブレッドとビニールに包まれたサンドイッチが並んでいる。

 こんにちは、と挨拶をする。多分「おはようございます」という時間帯だけれど。おはようございますは、イコール「今日一日よろしくお願いします」というニュアンスを勝手に感じる。だから一瞬の出会いは、こんにちは。

 色々と買う。素朴と呼んでいいカテゴリのパンが多い。とりあえず食べたいものを買って、お会計をした。値段も手ごろだ。いい店だと思う。

 そのあとはいつもの散歩コースに合流して、ぐるっと回って帰った。

 そして私はツイストパンに感動している。生地をひねって焼き上げたものに細かい砂糖がまぶしてあるパンだ。私が感動したのはその甘さで、例えば手軽に手に入れられる市販のそういうパンは甘すぎると感じる一方で、このツイストパンの甘さは絶妙だった。軽やかに甘いと言えばいいのか、食べても負担に思わない甘さ。もちもちとした生地は小学生の頃食べ慣れてしまった揚げパンに近いかもしれない。ずっと揚げパンを食べたいと思っていたので、少しだけ揚げパン欲が満たされた気がした。

 時々足を運びたいと思う。次はツイストパンを二個買いたい。

結果

「こうありたい」とか「こうなりたい」とか、そういうことを考えるとき、結果に関する情報を手に入れやすくなった時代だと思う。いや、「結果」が累々とそこら辺に転がってるからこそ、私たちは何かになりたいと思うのではないか。

何故そんなことを考えているかというと、様々なことを憧れから始めるとき、結果=理想をすぐには手に入れられないということを逐一自分に説かなければならないのが難儀だと思うからだ。結果ではなく、目の前の、この瞬間の手足の動きに満足すること。ずっとずっと自分に言い聞かせている。

「結果は遠い。まず目の前のことを」と思うようになったのは、意味がわからないと思うけれど、一向に書き終わらないノートがきっかけだ。終わらせたいが終わらないノートを終わらせるためには書き続けるしかないことを、何冊も何冊もノートを捨ててようやく理解した。理解して初めて、毎日日記めいたものを書けるようになった。毎日日記めいたものを書けるようになって、私は本当に多くの習慣を身につけることができたと思う。毎朝布団を畳むこと、布団を敷くときはベッドメイキングをすること、毎日の散歩、本を読むこと、靴紐を結ぶこと、髪を梳かすこと(天然パーマ気味の私は、髪を梳かすことに良い思い出がない)、少しずつ体重を落とすこと。

世の中にはたくさんの結果がある。それを手に入れようと努力するのは、私は辛い。それよりは、目の前のそれが楽しいから続けるということの方が合っている。それで結果的に私が期待したものに辿り着けなくても、それはそういうものだとして面白いだろう。我流のお出かけも、そういう風にやってきたじゃないか。

 

面倒くさがりを分析する。面倒に思うというのは、

  1. その物事の終わりまではっきり見え過ぎるがあまり、やることの量に圧倒される
  2. その物事の見通しが立たなくて怖い

の2パターンだと自分では思っていて、体を動かすことそのものは苦痛に思わない。1が結果まで見え過ぎているパターンなので、その場合は、よく言われているようにやることを細かく分解し、細かくしたやることに集中するのが良いだろう。これが私のここまでの文章で書いてきたこと。2は、とりあえず歩いてみて、それを逐一記録するのが良いかもしれない。RPGのようなイメージだ。レポートを書こう。その時々で自分が何を負担に思っているのかを考えてみる。

世の中にありふれた結果について考える。結果は、方針ぐらいに思った方がいいだろう。憧れの人そのものになれるわけではない。と、最近この人かっこいいなあ、と思う人のかっこよさについて考えながら、思ったこと、以上。

微糖

微糖の缶コーヒーが甘ったるくて持て余していた。一日かけて飲んでも無くなる気配がない。この甘さは、コーヒーとは別の、独立した存在だと思う。こいつをコーヒーと呼んではいけない。微糖の缶コーヒーだ。

と、机に置いたそれと睨み合いをしていたところで閃いた。私は立ち上がると、グラスに牛乳の冷えたのを注いで戻ってきて、少し飲んだ。量が減ったところに、飲めない微糖のコーヒーを注ぐ。両者はすぐに溶けた。かき混ぜる必要もない、あっという間の出来事だった。カフェオレを飲む。美味い。甘さがほどけて飲みやすくなった。なんだ、缶コーヒーってこういうふうに飲めばいいじゃん、と思った。

おいしいカフェオレを飲みたい。ミルクとコーヒーと砂糖のバランスが私にぴったりと寄り添った配分のものを。でも、何だろうな、完璧に私に合わせてくれたもの、って魔法だと思うし、存在したらそれはそれで気持ちが悪いなと思ったりして、撤回。私のことは考えなくていい、ただしミルクのコクが強い、カフェオレを飲みたい。