出奔経験者より

出奔。逃げ出してあとをくらますこと。

私はこれまで「出奔だったな…」と自覚する逃走を3回ほどしたことがある。多いな。あくまで自分が思う「出奔」なので、他人からすると「いやいやそうでもないよ」と言われるものを含んでいることに留意したい。とにかく3回だ。

弁明しておくと、いずれも多大な迷惑をかけた末になんとかなった(なんとかしてもらった)ものであり、最後は私なりに終わらせたわけだが(逃げっぱなしではないから、厳密に言えば出奔ではない)それに伴う消耗と負い目は今後も私の中に残り続けるだろう。

ポジティブに捉えるなら、この三度の経験を経て、私は多少なりとも良い方向に変わったと断言できるし、自分の御し方も学んだ。自分が信用ならない人間なのだということも痛感した。

これらの経験から、ある人間にとっては「逃げる」ということが苦しいことであることを知った(逃げることに抵抗がない人もいるだろうことも想像はできる)。適切なタイミングで逃げることができず、自縄自縛に陥り、逃げられなくなった末爆散することの悲しさよ。私が何かにつけて「終わらせることは難しい」と思うのも、この辺りの実感から出てくるものだ。

こんなことを今になって書いているのも、仕事関係で出奔に近い退場があり、その引き継ぎでてんやわんやしているからだ。本人の胸中はいかに。私には推測することしかできないし、それが当たっている可能性は高くない。私は「祭りじゃ祭りじゃ」と火消し作業に追われている。非日常としての祭り。これを楽しいと言ったら、不謹慎だろうか。

誰かが謝り、誰かはさらに仕事を負担することになるだろう。その人が出奔に近い退場をすることになった責任は、その人にだけでなく周辺の人すべてにあると思っていて(そこに私も含まれる)一方で、当人に対しては「いいのかお前…それは自分への呪いになるぞ」と念を飛ばしていたりする私だ。私は、何事にもそれ相応の報いというものがあると信じている人間だ。今からでもいい、少しでもましな状態に軟着陸する気はないか?

 

昔の話をしよう。

私の場合は、自意識がFFシリーズのボムのようにぶくぶくと膨らんでいき、破裂してショートしてしまった感じだった。あらゆるものの破壊だった。戻れなかったし、戻りたくなかった。

あの状態の私に声をかけるならなんと声を掛ければ良いか。まずは武装解除だろう。責められることはわかっていた。その責めを負うべきだとも理解していた。が、誰も(私自身も)私を救えなかったことに絶望していたから、甘いとは思うけど「あなたを責める気はないし、一旦ゆっくりおいしいものでも(ケーキでも)食べて、あなたとお話がしたい」と言いたい。実際、私はその件に限らず、私というものについて誰かに話を聞いてほしかったのだ。

だいぶ「出奔」していない。もう二度とやりたくない。

また同じことをしてしまうかもしれないという恐怖は今もある。「発症」しないためのケアを徹底している。薬物やアルコール依存の治療が他人事ではないのは、その回復のステップに何か近しいものを感じるからだ。回復し続けること。終わりはないこと。

 

季節は春である。行く人去る人さまざまが行き交うこの季節が、私は端的に言えば嫌いになって(人との出会いや別れがなければ好きだと思う)「春ですなあ」としみじみしている。とりあえず今日はよくやったので、カフェオレでも飲みたい。