結果

「こうありたい」とか「こうなりたい」とか、そういうことを考えるとき、結果に関する情報を手に入れやすくなった時代だと思う。いや、「結果」が累々とそこら辺に転がってるからこそ、私たちは何かになりたいと思うのではないか。

何故そんなことを考えているかというと、様々なことを憧れから始めるとき、結果=理想をすぐには手に入れられないということを逐一自分に説かなければならないのが難儀だと思うからだ。結果ではなく、目の前の、この瞬間の手足の動きに満足すること。ずっとずっと自分に言い聞かせている。

「結果は遠い。まず目の前のことを」と思うようになったのは、意味がわからないと思うけれど、一向に書き終わらないノートがきっかけだ。終わらせたいが終わらないノートを終わらせるためには書き続けるしかないことを、何冊も何冊もノートを捨ててようやく理解した。理解して初めて、毎日日記めいたものを書けるようになった。毎日日記めいたものを書けるようになって、私は本当に多くの習慣を身につけることができたと思う。毎朝布団を畳むこと、布団を敷くときはベッドメイキングをすること、毎日の散歩、本を読むこと、靴紐を結ぶこと、髪を梳かすこと(天然パーマ気味の私は、髪を梳かすことに良い思い出がない)、少しずつ体重を落とすこと。

世の中にはたくさんの結果がある。それを手に入れようと努力するのは、私は辛い。それよりは、目の前のそれが楽しいから続けるということの方が合っている。それで結果的に私が期待したものに辿り着けなくても、それはそういうものだとして面白いだろう。我流のお出かけも、そういう風にやってきたじゃないか。

 

面倒くさがりを分析する。面倒に思うというのは、

  1. その物事の終わりまではっきり見え過ぎるがあまり、やることの量に圧倒される
  2. その物事の見通しが立たなくて怖い

の2パターンだと自分では思っていて、体を動かすことそのものは苦痛に思わない。1が結果まで見え過ぎているパターンなので、その場合は、よく言われているようにやることを細かく分解し、細かくしたやることに集中するのが良いだろう。これが私のここまでの文章で書いてきたこと。2は、とりあえず歩いてみて、それを逐一記録するのが良いかもしれない。RPGのようなイメージだ。レポートを書こう。その時々で自分が何を負担に思っているのかを考えてみる。

世の中にありふれた結果について考える。結果は、方針ぐらいに思った方がいいだろう。憧れの人そのものになれるわけではない。と、最近この人かっこいいなあ、と思う人のかっこよさについて考えながら、思ったこと、以上。