青と灰

 お腹がいっぱいだと言葉を吐けないものだなと思う。あとはとても疲れているということもあるだろうけれど(一日中たくさん動いたので)。切れ端のような言葉しか、今日は放つことができない。繋げられない。繋げるための体力がない。

 青と灰。海と雲。思考が連続していることの幸せを噛みしめる。同じことをずっと考えたり、様々なことを無秩序に連想していったり。なんにせよ何にも邪魔されず分断されることなく、考え続けられることの幸福。ペダルを踏む足に力をこめる。太腿の筋肉が張る。息が切れる。背中が痛む。手のひらをできる限りひらいてすぐにブレーキをかけられるようハンドルを持つ。顔が緩む。思わず声が出る。楽しくて楽しくて仕方がない。漁港近くの道端には名の知らぬ魚の死骸が打ち捨てられている。たぶん海鳥たちの仕業。誤ってタイヤで潰さないよう、車だけでなく魚にも気を配って自転車を漕がなければならないなんて!まったくもって予想外。笑ってしまう。魚屋で、あるいはスーパーで見たことがある魚と状態は同じはずなのに(つまり死んでいるってこと)道端の魚はどうしてグロテスクに見えてしまうのだろう。もっと言うと、何が私の気持ちを悲しくさせるのだろう。あとは、猫なのか犬なのかネズミなのか海鳥なのかに、食べられるだけの彼ら(あるいは彼女ら)。

 海。波のきらめき。どーんと岸に寄せては引いていく。その音は地球のうねりのよう。恐れを抱く。灯台。常に海から風が吹きつける為、海岸線の植生は独特のものになるらしい。確かにあの町は常に風が吹いていた。そのことを私はどちらかというと「気持ちがいい」というよりは「落ち着かない」と捉えてしまった。たぶんその日のコンディションに寄るだろう。

 何層にも堆積された地層の断面が数キロほど続く自然のベール。信じられんなあ。何千年後、人類が滅んだ地球、灰に埋まった駅のホームとか一軒家とか信号とか船。遺跡は好きだ。その遺跡を実際に見ること叶わないのが残念。

 自転車と写真は相性がよくないという発見もあった。撮る!に対してシャッターを押す指がワンテンポもツーテンポも遅れるのがじれったかった。自転車を止めなければならない。さらには少し来た道を戻らないといけないかもしれない。そんなの話にならない。だから歩くという行為をもっと好きになった日だった。歩くことと写真を撮るスピードの乖離はそこまで大きくはない。ま、自転車も同じくらい好きになったけれどね。

 

 私は大概のことは楽しめる。それはとても素晴らしい才能だね、自分で言うのも変だけど。青と灰。今日の世界の色。

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全力疾走は危険です

 平日の昼下がり。少し外を歩くことにした。そして出くわしたのだった。

 

「全力疾走は危険です」「事故の原因となりますのでご遠慮願います。」

 

 その張り紙が目に入って、私は一度掲示板の前を通り過ぎる。そして足をぴたりと止め、そのまま後ろ歩きで戻り、スマホを取り出す。パシャリ。ふへ。

 全力疾走は危険、か。歩きながら私の顔はほころぶ。ふへへへへ。すぐにちゃんとした普通の人の顔に戻す。ふへ。

 今日はこれが一番の収穫だな。特大の上物を見つけてしまった、よっしゃあ!と心の中で快哉を叫ぶ。

 全力疾走は危険、全力疾走は危険、全力疾走は危険。口の中で飴玉を転がすように、ころころと唱える。ふへ。こんな素晴らしい注意喚起なかなか無いと思う。江國香織『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』に通じる何かがある、かもしれない。

 さて。遊ぶのはほどほどにして。私は歩きながらぼんやりと考え始める。この注意喚起を真正面から受け止めてみることにする。私が最後に全力疾走したのはいつだろう。普段定期的に運動はしているけれど、それは全力疾走ではない。走るときはジョグペースであって、スピード練はしない。私は、全力疾走を、しない。だからあの張り紙のように注意喚起されたところで、何も、不都合は、ない

 じゃあ、仮に。今、疾走してみよう。ショルダーバッグに文芸本とノートとペンと財布とスマホを入れていて、きっと走るときには邪魔になるだろうし、中身は揺すられじゃこじゃこになるだろうけれど、それでも走ってみよう。そうだな、なんだか肉離れを起こしそうだ。ぴきーんとなりそうだ。全力疾走は、ほどほどに、リスク

 でも全力疾走は「危険」とやらが制御できるものではないじゃない?私は思う。全力疾走とは閃きであり衝動であり、「危険」の手に負えるようなものではない。だからあの張り紙は、ぜんぜん、ナンセンス。

 うふふふふ。面白いなあ。私は歩く。次第に眠たくなってくる。

気を失う

 以前より寝つきが悪くなった。といってもまだまだ寝つきが良い部類に入るだろうけれど、眠れない状態がある程度続くと感じる。どうしたものかと思って、最近は眠りに落ちるまでの間、自分が気絶する妄想をしている。この前は火事現場に居合わせて一酸化炭素中毒におちいる場合。実際は当然ながらノーサンキューである。

 意識を失う感覚を人はきちんと理解しているか、把握しているかというとそんなことは無いと思うのだ、実際私は気がついたら眠っているのだから。寝ることは怖いな。死ぬことも怖い。意識を失うことが怖い。毎夜毎夜死んでいるも同然な私。気絶を想像するのは、「意識を失うこと」をなるべく鮮明にしたい?明らかにしたい?詳らかにしたい?という好奇心であり、「倒れたい」というシンプルな欲望でもある。気がついたら病院のベッド。点滴。酸素マスク。脈拍を測定する機械。そこまで想像すると途端に醒める。面倒だ。健康であることがいちばん。

 と思って、気がついたら翌朝。

袋麺

 明星チャルメラを買っておいたのでぺりぺりと袋を開けて乾麺と粉末スープを取り出す。500mlの水を小鍋で沸騰させ、鶏のささみと白菜1枚とキャベツ1枚を切って入れる。卵も好きなので割り入れて蓋をして3分ぐつぐつして、それだけでは卵は半熟状態である。できれば固ゆでがいいのだけどなと思いながら、固ゆで卵の状態にするには3分という時間はあまりに短すぎる。やっぱり卵を湯にでも割り入れて固めてから後のせするのが良かろう、今度試してみよう(さて私は今まで何回袋麺を食べたことだろう、今更?今更!)と思いながら適当な器にうつして、ラーメンを食べ始める。

 まあ、別に悲観していないのだけれども、私は何かを食べながらその食べ物の「上位互換」にあたる食べ物を想像してしまうという悪い癖がある(何をもって「上位互換」?例えば値段とか食材の質とか、まあ色々だ。全部美味しい)。袋麺を食べながら、そういえばラーメン二郎食べたかったな、食べたいなあとか考えている。それは袋麺をばりばりに(「乾麺」だけにばりばりと)足蹴にするつもりはなくて、だってどちらも愛している。等しく。平等に。今度ラーメン二郎食べに行こうと思って手帳に書きつけておく。「私はラーメン二郎でラーメンが食べたい。」そして乾麺は好きだ。野菜を多めに入れるのがいい。

 同じように、うどんでもパスタでも定食でもチョコでも煎餅でもタピオカミルクティーでも「もっと美味しいものがあるはずだ(でも私はそれを知らない)」ということにわくわくする。可能性しかない。食べ物はまったくもって雄大、広大、無限大なのである。

 美味しさに対してシビアに判断できる舌を持っていない私が「上位互換」を夢想するのは、シンプルに連想ゲームのようなものなのかもしれない。そうやって星座を繋げるように点を作らなければ、私の毎日は退屈なものになってしまう。

川を見ると元気になる

 川を目的として出かけることはないけれど、出かけた先で川が流れていたら見に行きたいタイプ。

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 きらきらと光る川面を見ると嬉しい。せせらぎを聞くと安心(科学的にも様々な効果があることは証明されているらしい)。時間は、同じようでまったく違う「一瞬」の連続であること、水の流れを見るとわかりやすい。水の形は定まらない。

 川を見ると元気になる。余分な思考が削ぎ落されクリアになる。大切にしたいことについて考えられる。川はいい。

 

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片耳のピアス

 ピアスの片割れを失くしてしまった。また買わなければならない。片耳だけのピアス。左と右、どちらにつけるかでそれぞれ意味があるらしい。何も主張がない、ピアスをよく失くしがちな(しかもきまってどちらか一方!)私のような人間の為の意味を何処かの辞書にでも追加しよう。

 「私は何度もピアスを失くしてしまう面倒くさがりな人間です」

 意味。意味。意味。そんなものに意味はあるのか。考える。しかし、意味があることで救われる人がいて、意味がない意味に支えられている人だっていると思う。男性にとっての右耳。女性にとっての左耳。それを蔑ろにするつもりはまったくない。

 とりあえず片割れを失くしてしまったので不本意ながら右耳につける。左耳のピアスホールは塞がりやすいから早めに新しいピアスを買わなければなと思っている。