VALORANT
VALORANTのプロの試合を見ている。このゲームに関わらず、そしてe-sportsに限らず、高度に洗練された動きはどれも美しいと思う。VALORANTについてはチーム内のコミュニケーション、セットアップのバリエーションや質、相手の構成や戦略の読み、個々の技術など、様々な要素があって、かつ、スピード感がある中で判断しなければならないことが多く、このゲームのプロシーンで活躍する人は誰もがとても頭がいいのだろうと思った。ボールを全力で追いかけながら詰将棋しているように見える。意味が分からない。
猛々しさ
実際に体を動かすスポーツを観戦するよりは自分の体を動かす方が好きで、だからスポーツ観戦は好きでも嫌いでもなく、どのチームが勝った負けたも興味がない。野球も見ない、サッカーも見ない、相撲もフィギュアスケートもバスケも、見ない。水泳と陸上は少し。
水泳というスポーツも、確かに一番速い人が存在するわけだけど、とりあえず過去の自分がタイムという形で明確に存在していて、過去の自分をまるっきりの他人と捉えるなら、他人を打ち負かすときの高揚の味みたいなものはあるのかもしれないけど、やっぱり自分はまるっきりの他人ではないし、私が特に泳いでいたとき何が楽しかったかというと、大会より練習だった。ちょっときつめの内容で、ひたすらぐるぐるコースの中を泳ぎ続けるのが良かった。何が言いたい? 私は勝負事とは縁遠い人生を歩んできたということ。
e-sportsについてはどうだろう? 様々なジャンルのゲームの競技シーンを見ていると、どうしてもお気に入りの選手やチームが出てくる。好きなアーティストやアニメやアイドルがあるのと同じように。それはidolの信仰。コンテンツに触れる、好きが深まっていく、その選手やチームが勝てば嬉しいという感情が出てくる(負けてもそんなに悔しくない)。
邪魔だなと思う、そういう感情。自分がコントロールできないことに一喜一憂しなきゃならないのがうざったい。勝てば嬉しい。アドレナリンでも出ているのだろうか。気持ちが高揚する。それが引いたあとに何が残る? 虚無。何かを好きになることはむずかしい。
やっちまえ、殴ってぼこぼこにしろ、という暴力性みたいなものは存在し、ゲームの勝敗をきっかけに暴力性が顕在化する感じがして、のめり込めないスポーツ観戦以上に、e-sportsやボードゲーム(将棋はそうでもないけど麻雀プロは引っかかってしまう)はその傾向が強い。後味が悪い。喉に苦いものがつっかかっている。勝つということは誰かは負けるということで、負けすなわち惨めなんてことはないけど、勝ちを喜ぶということは、誰かの転落を喜ぶことと同義(じゃないけど同義)のように思えて、苦しい。誰かの勝ち負けより、自分をどれだけ磨けるかに集中したい。
coco壱
coco壱のカレーを美味しいと思うようになる。毎回何を頼めばいいかわからなくなり結局オーソドックスなポークカレーを注文してしまう。次はこれを頼もう(次がいつになるかわからないけど)と、メニューのパンフレットのうち、シーフードとぱりぱりチキンときのこを切り抜いて、日記のノートに貼っておく。これなら忘れないでいられるだろう。
無関心
怒ることがあって、そのすぐ後に外に出る機会があったので歩きながらスマホのボイスメモを立ち上げると、不審に思われない程度にスマホに語りかけていく。自分が何に怒っているのか、率直に(悪しざまに)。
- 自分が正しいと思ったことをなるべく行いたいし
- 正しくなかったとしたらそれを修正していきたい
- 自分の発言を振る舞いを周囲がどう受け取るのか、正確に見積もれなくても良くて、
- 私が嫌いなのは、そもそも振り返るという発想のない人なんだけど
- 嫌いって言っていいのかな、それ
人間がわからないと思った。わかろうとすると私はその人を嫌いになりそうだし、嫌いになるぐらいならわからないまま、胡麻化している方がずっと楽だと思うのだけど、人はけっこう簡単に人のことを嫌いになるし、憎らしいと思うのだろうか。
肩甲骨
目下の課題は、肩が硬いことと、腕の筋力が落ちていることで、肩甲骨の可動域を広くしたい。
測量野帳
MDノートは日記用、ミニ6手帳は楽しいことストック用、測量野帳(っぽいものでも可)はその日のメモ帳。