メモランダム vol.10

恐ろしきこと

今日は、絶対、アイスコーヒーを、飲むぞー!

と意気込んでふらふらしながらカフェへ。どう考えても空腹。腹に収めるべきはコーヒーではなくクッキー。だけど私はアイスのミルクコーヒーをテイクアウトで頼み、一向に溶ける気配のない氷をじゃらじゃらさせながら住宅地を抜ける。お腹が空いた。おにぎり食べたい。

どうも帰る気分にならないので、駅の改札を抜けた先にある椅子に座り読みかけの本を開く。人々の雑踏と耳元で適当に流すインストが混ざり合い無色になる。どのみち本を読んでるときは何も聞こえないのだ。今読んでいる本を早く読み終わりたい。

日記を読んでいるので、一日が終わると本を閉じ、人々の往来をぼうっと見つめ、気が済んだらまた本を開き読む、というのを何度か繰り返す。

何度目かの往来鑑賞。よくもまあ、こんなに人間がいる、と思う。歩く人々それぞれに思考があり信念があり親がいて(親がかつていた、かもしれない)行くところがあり帰るところがあり(ない人もいるかもしれない)ということを考えていくと、畏怖のような感覚を抱く。それは、とても恐ろしいことだ。そのことに無自覚でいられるということが。

 

常日頃

なんにも感じないわけではないのだけど。

ただそれを言語化しないだけなのだけど。

 

知性

 他人の持ってる知識が怖いと感じる。私も誰かにそう思われていたらどうしよう。どうしようもないけど。この人よくわかんないこと考えてて、なんか怖い。

 実際のところは別に怖くもなんともない、金メッキみたいな人間で、自分に対する他者からの評価が良いとき、実体とは著しく乖離がある。その上で、向こうが勝手に勘違いしてるのだからそのままにしておこうという割り切りはここ数年で身につけたのかもしれない。正直そこまで面倒見切れない。実際の私はというと、知らなければ、という焦燥感はあるけども、体が追いつかず、食べないといけないけれど食べたくないものは食べたくないという感覚に引き裂かれている。その拒絶ははたして正しいのかしら。

 他者と関わるとき、私には手の負えない領域の一端に触れたなと思うとどうも萎縮する。

 でもさあ、それって知識にありがちな権威性ってやつじゃないの?という疑問は反知性主義に繋がるのかしら。つまり「そんなに、知るってのは大事なことなのかよ」という感覚。

 私はあくまで私という土壌を豊かにしたいがために知識を得たいのであり(あとは、知ることで生きやすくなったり、人を傷つけることがなくなればいいという思いも少し)誰かの優位に立つために知りたいわけじゃない。これは個人的なことなのに。きっと他の人も、似たり寄ったり、己の知的好奇心に駆動され各々の知を深めるわけで、そのことによって私の価値が落ちるわけじゃない。落ちたところでどうでもいいはず。じゃあ、何故私は萎縮するの?

 そんなことを考えていた。動きづらい、やりづらい。私は私で好きなことをやりたい(やってきたはず)。

 

ペペたまリベンジ

 ペペロンチーノの作り方は様々あるが、手っ取り早く小さなフライパンで作る。茹であがり1分前のタイミングで、スパゲティをぐつぐつ茹でてるフライパンに、溶き卵を投入してスクランブルエッグを作ってみる。卵が具のペペロンチーノ。これがなかなか美味しい。ぺぺたまの志向するのところは、カルボナーラのようなペペロンチーノのような、なのであれば、私はペペロンチーノにスクランブルエッグが混ざった加減が好きっぽい。しばらくこの食べ方でやっていきたい。

 

顔色窺いについて

スパゲティの麺を茹でながら以下のようなことについて考えていた。

  • 私は実際に読めているかは別として人の顔色をよく読んでしまう
  • 相手に嫌われたくないからかというと違うかもしれない
  • 私という一要素で他者の気分を損ねたくないという思いがひとつ
  • 私に関係ない状況であっても、なんらかの働きかけをすることで機嫌が直れば直したい(直したいというのが傲慢な物言いであることは理解している)という思いがひとつ

私が理由だろうがなんだろうが「機嫌を悪くする」という選択をしてるのは相手なので、私が全面的に悪いというわけでもないという考えを持っている(もちろん私に非がある部分はきちんと認めた上で)。よってめちゃめちゃ不安になることもないのだが、とはいえ、機嫌が悪い人を見るのは苦手で(好きな人はいない)めちゃめちゃストレスだ。

嫌われたくないじゃなくて、本能に、近いところでどうやら無理っぽいな、顔色を窺っちゃうなと思い、まあ仕方ないね、と今日も今日とて美味しいペペロンチーノを食べた。

 

パルテノ

 偏食はわがままだ、と思ってしまう。あくまで自分においての偏食は、という注意書き付で(てか、いちいちこの注意書きしないと駄目なのかしら、私はあくまで私においての話しかしていなくて、私以外における偏食なんて知ったこっちゃないんだけど。あなたの偏食?大いに結構。私は何とも思わない。私にそれを断ずる権利があって?無いでしょ)。

 私の偏食は私のわがままだと思っているから、特にこれが嫌いってのは書くべきではないと思っている。しかし、パルテノの話をする為には、私はヨーグルトがあんまり好きではないという話をしなくてはならない。ヨーグルトが苦手だけどパルテノはめっちゃ美味しい。

 パルテノは、森永乳業ギリシャヨーグルト パルテノのこと。高たんぱく。似たような製品にダノンのオイコスもある。オイコスとの違いは、パルテノの方がより固いヨーグルトな気がする。

 ヨーグルトもチーズも苦手。チーズケーキは好き。パルテノはレアチーズケーキ感覚で食べられる、というのが私の「めっちゃ美味しい」の内訳である。甘すぎないというのもポイントだ。ときどきアロエヨーグルトだけは食べたくなるけども。

 値引きされたパルテノをスーパーの片隅で見つける。値引き商品にめっぽう弱く、私が得をする為に、というより、値引き商品を救わなければ!という使命感で手を伸ばしてしまう。かくしてパルテノ ブルーベリー味 30%引きを見つけてしまったがために、私の今日のおやつ(結局寝る前に食べた)はパルテノになった。至福のひととき。パルテノを食べるだけでお金もらえないかな。もらえないか。

 

並行

 図書館へ。6冊借りる。今読んでいる本を合わせると8冊。私はこれを並行で読もうとしている。というのも、本を借りた瞬間の熱がいちばん高く、以降は下降気味になり2週間も経てば冷めきってしまい読書欲が消失するという現象をどうにかしたかったからだ。

 本を借りる、そしてその日に借りた本すべてに目を通す。具体的には「はじめに」の部分を読む。そうすれば私は本と知り合うことができ、知り合いになれば親しみを持つことができ次のきっかけが生まれる。そういう流れをイメージしている。ということで、本と知り合うために、先ほどから平積みにした本を一冊一冊と軽く読んでいき、積んでいく。平積みがなくなった。そうして再び生まれた別の平積みにもう一度手を伸ばし二巡三巡としていく。

 このやり方はおそらく私には合っているが、どうなのだろう。一冊をじっくりと読むことの楽しさもまた存在するわけで。ここから読みのムラが出てきて、進捗度も変わってくるだろう。やはり本には読みやすい、読みにくいが生まれてしまうものだから。その場合でもなるべく8冊を並行して読みたらいいものだ。鉄は熱いうちに。