腕立て伏せ

 好きな筋トレはランジだけれど、最近は腕立て伏せも好きになってきた。両の腕で自分の体重を支えることが出来なくて仕方なく膝をついてゆっくりと腕立て伏せ。両足では問題なく重いとすら感じないのに、腕で支えるとなると途端に肉の重さを感じる。ままならない私。肉の塊。それが醜いとも感じるし嬉しいとも思う。

 ピンクのコスモスの花びらを、好き、嫌い、好き、嫌いと一枚一枚ちぎっていく、ように(私には経験がない)こだわっていたことが花びらとなって散っていく。例えば体型のこととか、愛されるとか愛されないとか、誰とも仲良くなれないこととか。花弁を失った花は花であるのかわからなくなることと同じように、かつてのこだわりを失くした私は私なのだろうか。それすらどうでもいいだなんて。息がしやすくなったけれど、つまらない自分になった。

 体重とか体型とかどうでも良くて、ただひたすら毎日運動する。この思念を原動力にして生きているのが私。ただ運動する。ただ書く。ただ写真を撮る。ただ食べる。ただ眠る。原則、使命、命令、信念、概念が私のガソリン。あるいは、マリオネットが私、腕に顔に、足に胴体につないだ真っ白な紐がそれぞれの思念。そうやって私は生きている。

 《透徹》という言葉を辞書で引いた。「透徹とした青空」「透徹とした論理」。透徹とした瞳を持つ人に会ってみたい。あるいは私が気づけない、目が曇って淀んでしまっている可能性も大いにある。

 腕立て伏せに《生》を感じる。いつでもどんな時でも食べる自分にある種の信頼を寄せている。生きることにある意味で向いている。多分、向いているのだと思う。