間違い探し

 Nintendo Switchで遊べるようになったということで、ゲーム「8番出口」を遊んでみたところ、何故か一発でクリアしてしまったので「これってもしや私にそういう才能ある???」とうはうはしたところで、いや「運だろう」と一蹴してここにいる。このゲームの存在自体は知っていたし、遊ぶ人の動画とかも見ていたのだからアドバンテージもある。異変を知っていることと知らないことでは条件が違いすぎる。あらかじめ知っている異変のうち実際に私の番で登場した異変は1つしかなかったので、異変のわかりやすさに助けられたところもあるだろう。

 8番出口を実際に遊んでみて一番印象に残ったのは「ここから永遠に出られなかったらどうしよう」だった。この閉塞感みたいなものは、実際に遊ばないとなかなか想像できないものだった。このゲームのポイントは、「出られなかったらどうしよう」という感情がポイントだと思う。少なくとも、私という人間がこのゲームを遊ぶ上では。

 6番7番とゴールが近づいていくにつれ「ここで失敗したらめんどくさいことになる(なぜならゲームの振り出しに戻るからだ)」と、予見される面倒事への恐れが体の中で膨らんでいき、異変を察知しようと苦心するの邪魔してきて、それに抗うのが大変だった。丁寧に、慎重に、ゆっくり、慢心せず、異変を見つけようとすれば、おそらく前には進める。が、それはとても神経を要することなのだと、改めて思い知らされた。

 遊びなのに、仕事をしているような気分だった。自分の仕事の性質上、こういう「間違い探し」のようなものは常にそこらへんにあって、自分は普段から間違い探しをたくさんしているのだなあ、という気づきも得た。間違い探しは嫌いじゃない。平面の、誰かが意図的に作った間違い探しを解くより、誰も理解していない間違いを見つける作業の方が楽しいし、スリリングだ。見つけたときのありがたみが増す。お宝を探しているみたいに。

 

 ゲームというのは、面倒な部分が必ずある。ゲームに限らず、どんな面倒事を許容できるのか、あるいは許容できないのか、その違いが人間の個性だと思うけど、私はRPGの面倒くささはいくらでも受け入れられるのに、8番出口の面倒くささは受け付けないみたいだった。面白いと思う。

 1回遊んで面白かったことに間違いはない。けど、もう遊びたくないな(それはゲーム性が悪いと言っているわけではなく自分のメンタリティ的に気が進まない)と思って、420円の入場料だと思えば、ぜんぜん良いか、と自分を説き伏せている。