死刑

なんとなく、死刑について考える日だった。

こういうタイトルにして、こういうタイトルの内容のことを書くと、そりゃあそういう話だよね、というお決まりな「匂い」みたいなのが嫌で、死刑という言葉の(そして実態の)厳しさに反するように柔らかくそれを語りたいが、厳しいものはどうしたって厳しい。それを変えることはできないのかもしれない。でも、私は気にすることなくうだうだと考えたい事柄である。

 

世界で考えたとき、死刑制度を続けている国は多くない。が、今日もまた死刑が判決で言い渡された。

この、たった二点をポイントとして、私たちは何を考えることができるだろう。

文化や環境、言語などなどたくさんの違いがありながら、人間であるという共通項を持ちながら、死刑が存在しない国もあれば存在する国もあり、そこにある違いはなんなのだろう。何故私の生きる国には死刑があるのだろう。何がそうさせているのか、私は昔からずっと気になっている(やっぱり人権かなと思う。なんというか、人権は降って湧いてくるものではなく掴み取るという意識に乏しいのかもしれない)。

「なにが」という部分を、私個人の感情から探すことは難しい。「じゃああなたの愛する人が同じような目に遭ったらどうするのですか」という問いの、実はこの言葉はとても空虚なのでは、そして私はその直感を言葉で証明できないことに、とてもいらいらする。私が取るべき対応は一つしかない(「その質問以外で何かこの件について話せることはありますか?」)。

死刑は私刑じゃないよなと思う。死刑以外のあらゆる刑罰も私刑ではなく、確かに刑罰の出発点は個人的な感情を出発点にしてそうだけど、権力を持つ側がそれを行うと決めた時点で感情との距離は少し遠くなるような気がしている。

この話になると、罪とはなんですか、罰とはなんですか、贖うということはなんですか、ということになり、私にはお手上げである。法学部に入るしかない。

 

難しい話なのだ。だから慎重にかつ冷静に考えたいことなのだけど、そういうムードじゃないということから、やっぱり考えた方がいいのだろうか。悲しく痛ましい事件が起きたとき、時を戻せたのなら何を変えればそれが起きなかったのか、ということばかりを考えている。