過密しか満たされない

海に行く。調子があまり良くない。糸を結び直さなければならない。

行ってみたかった公園を散策する。傾斜が大きい道を上ったり下りたりするたびに、意識は足裏に注がれる。足を滑らせたくない。踏みしめる地面のかたさ、岩の大きさ、形、湿り気、それらをさまざまな感覚器を使って確認するとき、私はさまざまな瑣末な物事から解放されると思う。そういう瞬間がたまに必要になるのだ。海を横目に歩きながら聴くサカナクションの「ナイロンの糸」が、細胞一つひとつに浸透していく。

外国人の父娘らしき二人が水着姿で海で泳いでいる。12月にしては暖かな一日ではあったけども。その横でシーカヤックに興じるふたりもいた。それを見ながら、川なり海なり湖なり、カヌーを漕いでみたい、ということを考える。暖かくなったらまた考えようと思う。

リゾート風のゆったりとした外観の建物はホテルで、最近SNSで見かけた「日本人は旅行のスケジュールを詰め込みすぎ、欧米人はその他に滞在してゆったりと時間を過ごす」みたいな話について考える。私は前者で典型的日本人かもしれないけど、そういうやり方しかわからない。のんびりするなんて、その場所を訪れた意味がないから無理、と思い、そういう考え方を検討する余地があるのだろうか。「修学旅行がそういう余裕のないスケジューリングを生み出したんじゃないか」みたいなコメントもあった。スタンプラリーも貢献している気がするが。あとは、勿体ないと思う精神。

ただ、朝8時に家を出て、電車とバスを乗り継ぎ、山道のような散策路を上って下って、隧道をくぐり、灯台に上り、海岸を歩き、美術鑑賞をしてハンバーガーを食べて、もう少し歩く自分のスタイルは、多分一般的な水準よりは多少過密だろうと思う。あと、私はスタンプラリーという誰かが決めた場所を真面目に回るのは、癪に障るから基本的にはやらない。

その公園を訪れる。肉肉しいハンバーガーを食べる。やりたかったことリストを二つ消費して、次は何ができるか考える。