感情という毒

お金と退職の話が苦手だ。政治の話は、もうちょっとましである。面白さの点で。そして、特にお金については興味がないわけではないし、大事なことだとわかっているし、お金を稼ぐことが悪だとも思ってない。お金ってなんだろうとは思うけど。

飲み会も嫌いだ。そういう話ばかりだからだ。私が行く飲み会がたまたまそういうことになるだけかしら。そして、飲み会を嫌いになる理由はそれこそたくさんたくさんある。

 

自分は理想家なのだろうと思って生きてきた。子どものように夢見がちでファンタジーが好きな幼い人間だから、「そういう話」が苦手なのだろうと。まあ、間違いではないかもしれない。私にはわからないことだ。

だけど、ああ苦手だな苦手だな、と思うたびに、どうして私は苦手なのだろうと考えていて、改めて思うのは、多分そういう話にまとわりつく「感情」が駄目なのだ、ということだった。私じゃない誰かの、その心の揺らぎへの耐性が低いのかもしれない。

感情は毒になる。度が過ぎれば。だから自分は、割と感情的で直感的なところから、論理的で慎重なものの考え方を身につけようとしてきたのだと思うし(それがうまくいってるのかはわからないけれど)いくつかの感覚の線をぶった斬って生きてきたのだ(でないと痛むから)。

思いやりや優しさとは違う、自分でも訳がわからない痛みについては、まだまだ解明できていない。反応する感情もあれば、本来もう少し反応すべきなのにまったく振れない感情もある。とても不思議だと思う。

 

毒について考えてきた。

痛むたびに、どうしたら痛まないかを考えてきた。

対症療法を充実させ、フィジカルを鍛え、どうにかこうにかやっている、ということを理解する人は、果たしてどれだけいるのだろうと思う。

理解されたいというわけではなく、慰めてほしいわけでもなく、この毒と痛みについて、冷静な分析と事例の集積が求められるのである。