階段ゾンビ

階段。好きでも嫌いでもないもの。でもこれからはちゃんと上がりたいと思っているもの。

 

先日、東京という街にある東京タワーに一人で遊びに行った。メインデッキまで階段で上がることができるようで、それにチャレンジしてみたかったのだ。元気が有り余っている。

東京タワーのお膝元にある商業施設の屋上に上がると階段の入り口はあった。係員の人が立っていてチケットを見せると(そう、私は階段を上るために1200円だか払うのだ)修了証みたいなカードをもらえた。まだ上ってないのだが。この階段は途中リタイアができない為、入り口をくぐったが最後、それは修了と同義なのだろう。お金を借りてるみたいだ。

そうして私は600段の階段を上り始める。カンカンカンと金属の足音が鳴るのが良い。階段は外付けなので一呼吸つくために立ち止まると、冷たい外気が体を冷やす。そして、そのうち階段を上ることに飽きた。

肉体的にしんどいか。しんどい。明日は筋肉痛になるだろうなあという負荷が脚にかかっているのを感じる。長袖のパーカーを着てきたことを後悔し(暑いから半袖になりたい)もっと水分を持ってくるべきだったと後悔し、けれどチャレンジしたことは後悔しない。後悔したら私の存在意義が無くなりそうだから後悔なんてしてやらない、と思いながら黙々と上った。途中、孫2人とおじいさんに出会い、彼らが写真を撮っている間に追い抜いた。抜いて抜かれての駆け引きを600段の階段でする余裕がないので、多少無理して引き離す。

階段。

上り坂を歩くときも同じことを考えるが、上るときになるべく苦しまないよう、ゾンビになるのが良いと思う。私的ゾンビに。意思を持たず、手足は脱力し、歩幅は無理をせず細かく。ゾンビ的歩法。東京タワーの階段をまもなくゾンビ歩法に切りかえる(余儀なく)。ゾンビ歩法の一番の課題は見栄を捨て去ることで、とにかくゆっくりリラックスすることが大事なのだけど、見栄がそれをさせない。どんなに抜かれても、舌打ちされても(まあ、あんまりされた記憶はないけど)後ろが詰まってても、自分のペースを保つのだという意思が必要、あるいはすべての意思を底に沈めること。

東京タワーの階段はその点良かった。上る人は駅の階段より圧倒的に少ないからだ。ずっとゾンビ歩法。600段を上り切った。

メインデッキにはたくさんの人がいた。東京タワーというのはエレベーターがあるのだ。同じ値段で東京の景色と600段の階段がついてくるのだから、階段で上がった方がお得だよなあ、と思いながらメインデッキを何周かして帰りも階段で下りた。建物の間からちらりと海が見えた。また海に行きたいなと思った。

 

600段も上ったのだからもうどんな階段も大したことはなく、これからもたくさん階段を使うだろう。そのときは自分のペースで、多分ずっと楽に上れるだろう。