湯豆腐

小さい頃食べられなかったものも、大きくなれば食べられるようになる、という言説があまり好きではなかったし、今も好きではない。食べられなかったものが食べられるようになる。それ自体は素敵なことだと思う。

理屈はわからない。大人になって慣れるとか味覚が鈍感になるから、と聞いたことがある。特に私が引っかかっているのは「鈍感になる」ということで、率直に「鈍感になりたくねえな」と思う。それは、悲しいこと、寂しいこと、違うな、瑞々しさを失うこと、不可逆の道をまたひとつ進むこと、引き戻さないことと同義だから。

そんな捻くれた考えを持つ私にも苦手な食べ物はあって、無理そうなのがパクチー、食べるけど食べたくないものはかぼちゃの煮つけ、と相場が決まっているが、他にも湯豆腐なんてものがあった。豆腐の味噌汁は好き、豆腐のハンバーグも好き、麻婆豆腐なんてとっても好き、おからも卯の花も平気、でも冷奴と湯豆腐が苦手。自分の中の理屈は明白で、豆腐のわずかな甘みが引き立つような構図が駄目なのだった。

先日鍋を食べる機会があった。主人公となる食材があって、ネギや白菜と同じように脇役として豆腐がくたくたと煮えていた。こういう豆腐はまだ好きな方だから、ちゃんと自分の小鉢にとった。ポン酢で食べた。ほろほろと柔らかい豆腐が、熱さを保ち、崩れながら胃に流れていくのがわかった。熱い(冷ますのが少しあまかった)。熱さを飲んだ。それは大変美味しかったし、体が温まるもので、なるほど、湯豆腐は温かいものでそれを食べることなのだ、と思えば、今回は鍋だけど湯豆腐も大丈夫そうな気がした。

今回の鍋において主人公は別にいたのだけど、それを差し置いて、私は豆腐がうまい、とってもおいしい、と言い続けた。生きていると新しい発見があるものだなと思う。今度は、豆腐が主人公の、おいしい豆腐の湯豆腐を食べられたらいいな、と思う。