好むと好まざるとにかかわらず

 先日から村上春樹の小説を読んでいる。氏の小説を読み始めたのはここ一年のことで、ただそれだけは書いておきたかった。つまり、村上春樹作品の熱心なファンというわけではないという、申し開き。

 よく「好むと好まざるとにかかわらず」という表現が出てくる。

 ひとたび存在を認めると、たちまち気になり始める。好むと好まざるとにかかわらず、と表現することがあるかい? 私はないな。

 どうして考えたことがないのか考えてみる。そういうシチュエーションに遭遇することがないからだ。いや、違うな。もう少し掘り下げると、好むと好まざるとにかかわらず、なんて場面は、細かく考えればこの世にはありふれていて、あえて「好むと好まざるとにかかわらず」なんて表現する必要がない、自明のことだからではないか。言ってみれば「太陽は東から上り、西へ沈む」のようなもの。当人にとってどうしようもないことなんて、ありすぎる。それをあえて都度都度口にするのは、自分への慰めだったり自分で自分を納得させるものなのだろうか(まじないのように)。

 氏の作品の中の登場人物が呟く「好むと好まざるとにかかわらず」には、どうにもならないこと、理不尽なこと、納得いかない状況といった、端的に言えば世界に対する諦念と、どうして自分がこんなに押さえつけられなければならないのかという憤り(ぴりっと辛いスパイスみたいな怒り)を勝手に感じる。好むと好まざるとにかかわらず、だなんて、結構哀しい日本語じゃないかと思う。そうやって、諦めたようで全然諦めてないじゃん、と思う。そして、いちいち「好むと好まざるとにかかわらず」と前置きしてしまう登場人物たちのそれは、チャームポイントになっていると思う。