ゲームの絶対的縛り

とても細かい話になるが、漫画「NARUTO」27巻(だったと思う)にて、医療忍術の使い手である綱手に修行をつけてもらえることになった春野サクラが、まな板の上で微動だにしない鯛っぽい魚に対して治癒行為を行うカットがある。修行の一環だ。てか、医療忍術って鯛にも有効なのだなあ、それもそうか、現代医療も生物を利用した実験を行うわけだし、それはさておき。サクラの素質と努力もあり、鯛の蘇生に成功し(バタバタとまな板の上で跳ねる鯛)「どうですか!?」とばかりに綱手を振り返るサクラのカットがめっちゃ好きなのだがそれもさておき、NARUTOは結局完読できてないので間違っていたら訂正したいが、医療忍術は死人を蘇生することはできなかったと思う。アスマに対して懸命に治療をするイノのカットを思い出す。ということは、あの微動だにしなかった鯛は瀕死だったか、あるいは人間以外の生物ならワンチャン息絶えても蘇生できるのか。前者だと思うがどうなのだろう。

何故そんなことを考えていたかというと、フィクションにおいて、人を回復させる魔術なり忍術なり能力なりは数知れないが、人間を生き返らせる能力は稀有ではないか、と思ったからだ。あらゆるフィクションを知っているわけではないけれど、おそらく人間の生き返りは容易く行われるものではない。すなわち、多くのフィクションは、人間はいずれ死ぬし、死んだら生き返らない、ということを前提としているのだ。なおゾンビ作品は「ゾンビが誕生する」と捉えており、人間が蘇生するとは私は考えていない。

不思議だ。フィクションならその公理をひっくり返したっていいのに。魔法が存在するならば、人が生き返ったっていいだろう。

ただ、人が生き返る世界がないのはよくわかる。我々の生きる世界においてめちゃめちゃ強固な「縛り」が「人の生き返らない」なので、人が生き返る世界を描くとそれこそ本当にリアリティがなくなる。魔法やら若返りやらがあったとしても、どこかで共感できたり想像できるのは「言うて人間って死ぬし、死んだら元には戻らないのよ」という公理があるからではないか。死んだらそれで終わりというのは、かなり深いところにある前提のようなものだと思う。死んだらそれで終わり、がなかったとして、それ以上に現代に生きる私たちと架空の物語で共有できる事柄があるのだろうか。私は思いつかなかった。

仮に人が生き返る世界があったとして、生き返りはどのようなメカニズムか次第だし、生き返りの範囲を決めないと大変なことになりそうだ。何故なら、これまで生きてきた人類を範囲とするなら、生きている人間が数量的に圧倒的にマイノリティになるからだ。死人の帝国が築かれる。生きている人間にとっては面白くもなんともない事態だ。やっぱり生き返り設定は難しいのだなと思ってしまうし、フィクションとしては案外面白くないのかもしれない。

人が死ぬ、そして生き返らないというのは、絶対的かつ強固な縛りだ。ゲームでいうルールだ。ここでも出てくる有限性。ゲームを(私は人生がゲームだとは思っていないが)するために最低限必要なルール。ということを考えられるのは、自分が健康だからこそとも思い、些か憂鬱になるが。平等じゃない、まったく。