涼風

 プールからあがると、手早くシャワーを浴び、更衣室で着替え、外に出た。昔からドライヤーが嫌いでタオルドライで済ませた(つまり、まだ乾ききっていない)短い髪が風にそよぐ。気持ちがいい。夕方になり、風が出てきた。気温が落ち着き過ごしやすい。少し歩くことにする。

 個人の飲食店が立ち並ぶ道に出る。日が暮れるにはもう少し時間がかかるようで、明るいながらも既に店の中は人々で賑わっており、窓を通してこちらまで楽しさが伝わってくる。大体の人が誰かと語らいながらグラスを呷り、ナイフとフォークを持ち(あるいは箸でもいいけど)食事のひとときを堪能していて、その光景は私をあたたかな気持ちにさせる。素敵な景色だ。

 誰かがいる、ということについて考える。私があんな風に誰かと(何も相手は一人でなくたっていい)語らいながら食事の時間を楽しむことはあるのか、そりゃあ、あるだろう、全くないわけではない。ただ、私自身がその光景を見ることは叶わないのだった。私は私一人しかおらず、食べる私とそれを見る私は両立しえない。それが問題であるようだった。今、この瞬間、名の知れぬ誰かを羨むように(楽しそうで羨ましい)私も私を羨みたい。私が私の目撃者になりたい。でも、無理だ。乾いた涼しい風で体が冷えてきた。

 なんにせよ、この道で目撃した幸せのひとときは素敵な光景であったことに変わりはない。歩きながらなおも考え事を続ける。夏は死者と近くなる季節だと思っているのだが、それもわかる気もする。昼間のあっつい陽気から(今日も本当に暑かった)一転、夕方の涼しい頃合いに吹き抜ける風は自分の中の虚(うろ)がつけ込まれるような、いや、虚ろな何かが引き出されるような気がする。秋の寂しさとは異なる、油断したところで刺されるような寂しさが、夏の味わい深さといえばそれはそうなのだけど。