不平不満

 あまり愚痴を吐かない。愚痴を吐かないこと、それは褒められたものではないと思っている。愚痴を吐けるなら吐いた方が良いに決まっていて、でも私はどうしても他人を前にして愚痴を吐くことができない。悪口も言わない。愚痴や悪口を言う人を「まあまあ」と宥めるばかりで、「治野は愚痴を言わないよね、どうして?」と聞いてくれる人はなかなかいない。問われたところで私は依然として愚痴は吐けないだろうけれど。それはさておき。

 いつものように調子が悪く「放っておいても回復するけど回復する前が一番つらいんよな―、仕方ねえな、あとでジョギングしよ」なんて考えていたのだが、ふと思い立ってノートを開くと「今日のこと」と題して、自分の調子の悪さについて文章を書き始めた。余裕がないから狭量になるし、視野狭窄な状態で物を考えても良いものは考えられない。意味ない。真っ当なものにならない。そこまで書いて私は、今この瞬間、不満に思っていることをただひたすらに書き連ねていく。どうしてAさんはあんな風に高圧的に喋ったのだろう(多分自分の物言いが高圧的である自覚がないし、それが人にどういう印象を与えるかも思い至らないのだろう)、仕事が暇で憂鬱、将来が不安、BさんとCさんが結託すると二人とも少し意地悪くなってそういうところが嫌い、Dさんは自分の仕事の進め方をもっと工夫して、どんどん他の人に作業を割り振ればいいのに。Eさんは自分の機嫌の悪さが他人にどういう影響を及ぼすか考えた方がいい、私はあなたのことが嫌い、などなど。

 私の好きな私なら、これらのことはまったく意に介さないだろう。私の好きな私というのは、例えばサイクリングしている私とか、電車に乗ってちょっと遠くまで出かける私とか、砂浜を歩く私とか、そういう1000%元気なときの私だ。1000%の私も私は知っているので、今だけなのだと思える。今だけこんなに調子が悪くひどく悲しい気持ちになっているのだ、と。昔はそうもいかなかった。1000%の私を自覚的に覚えておこうなんて思っていなかったから。

 不平不満を表現するのが苦手なだけで、不平不満を抱かないわけではない。書いても意味ないなと思って言語化してこなかったけれど、効用はあった。書けば私の肩から荷が下りる。体が重たく、息苦しさを覚えるのは、晴らすことのできない愚痴や悪口の所為もあるのかもしれない。ノートに書くだけで幾分心が落ち着いたので、これからは定期的にアウトプットした方がよさそうだ。晴れない澱みは、そのうち他者への呪いになる。