確実な未知

 ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダムを買う。やりすぎないように時間を決めて遊んでいる。ゲームにのめり込みすぎると自己嫌悪の大波が押し寄せてくる。その自己嫌悪を見直してもいいのだけれど(何故なら、その自己嫌悪は自分に対する厳しさから来るものであり、もう少し自分に甘くてもいいこともあるからだ)見直すのは見直すで手間なので、一旦自己嫌悪を発生させない程度で存分に楽しむ方向へ進んでいる。

 ゼルダの新作を前にして思うのは、私は確実な未知を約束されたも同然なのだ、ということだった。

 ティアーズ オブ ザ キングダムについて私は一切の情報を知らない。度々コマーシャルの動画は見たけれど「かっこいいなあああ」という感想だけが残り、細部はよく覚えていない。他人の実況動画を見ることもSNSでの検索も徹底的に控えていたから、私がゼルダの伝説の新作を遊ぶということは、まったく知らないことを確実に知る、ということに等しい。未知が約束されているなんて素敵、と思う。音楽も小説も、新しいものに触れるということは遍くそういうことになるのだけど、ゲーム以上に興奮することはないかもしれない。いや、ゲームの刺激が強すぎるのだ(だから敬遠する理由にもなるのだが)。

 ただ、考えてみれば、未知というのは本当にそこらへんに転がっているのだ。それが、確かな未知だ、とは実感できないだけで。普通、私は、自分が何を知らないのかということを知ることはできない。ゲームが異常なだけだと思う。そして、知らないと思っていることを知るというのは、意識するとなかなか負担で(怖いことでもある)買って遊んでみたいと思うぐらいには気になっていたのに、いざゲームを始めようと思うとからだが少し重たく感じた。軽やかに意識せず未知には飛び込んでいたいものだと、溜息をつきたくなる。