ユとヨ

 前に呟いた記憶があるのだけれど、私はカタカナのユとヨを必ずと言っていいほど間違える。ああ、今日も間違えたと思ったのは、あんスタのSwitchの大好きな曲「Romancing Cruise」の、「甘い眩暈に~」のパートについて考えノートに書き写していたときのことである。この曲、軽やかに上品で色っぽい曲でして、高校生に歌わせちゃあかんぞと常々思っている。同じくらい(いいともっとやれ)とも思っている。好き。「運命の狙い通りだったらいいんだけど」と歌う春川宙に「宙くん!?!?!」となる(御年17歳)。さておき。

 この曲で「どこかヨユウがない自分じゃもう足元が」というパートがあり、この部分を紙に書き写していたら間違えた。「ヨユウ」の出だしが「ユ」になってしまったのだ。

 

 紙に文字を書くのがそれは好きなので、書き損じも日常茶飯事、よくある間違いは「先行入力」で、二、三文字先の文字を書いてしまうというのはよくあることだ。それはそういうものなのだろうと思って深く気にしていないが、ヨとユの間違いについては、識字の問題に掛かってくるだろうと思って興味深い。

 ディスレクシアの書字障害(ディスグラフィアの、超限定版、という雰囲気。漢字含め他の文字にこのような苦しさを感じたことはない。

 苦しさ。そう、苦しさ。カタカナのユとヨには微妙な苦しさがある。少し言語化してみると、音としてYuもYoも認識しているが、カタカナのユがYu、ヨがYoというつながりが他のカタカナに比べて弱い。「Yu、おーけー、カタカナにするね、え、ヨとユ、どっちがYuだっけ?」となる。あと、ユとヨという文字に差異が見いだせない。正確には、冷静に考えると記号としてのユもヨも違うことはわかるのだが(線の数が違うし、一番下の横線が飛び出ているかどうかも違うし)その差異を、書くときに限って頭から引き出せない。すぐに出てこないのだ。記号としてとても似たもののように感じる。ソとンの方がよほど区別しづらいだろうに、変な話だ。

 いずれも書くときに私の頭の中で起こっていることとなる。これだけのことをユとヨを書く度に一々しているので、若干テンポが悪くなるのもさもありなん。ユとヨを前に一瞬立ち止まらなければならないのは割と負担である。では、読むときはどうか。

 読むときは、そもそも単語をひとつの塊として記憶しているので、困ったという印象があまりない。ニュースは、ニュースという記号の連なりで覚えているのであり、ニョースになっていたら間違い探しのようにすぐ違和感を感じる。読むときはおそらく雰囲気で読んでいるのだろう。流石に「ヨユウ」のように、普段は漢字だけれど意図的にカタカナになった単語などに出会うと、うっ、と言葉に詰まる。ただ、自分がユとヨを書くより圧倒的に頻度が低いのでそこまで自分の中で印象に残っていないのだと思われる。

 まあ「どうしても間違えてしまう文字ってありますよね?」という程度の話である。対象となる文字が複数、あるいは、すべての識字に係るのであればそれはまた違う世界があるのだろう。想像力を持ちたい。