撃墜%

「今は遊んでないから」と言うので、ニンテンドースイッチ大乱闘スマッシュブラザーズスペシャルのソフトを借りて一人用モードで少し遊ぶ。スマブラXはずいぶん遊んだがそれ以降はまったく遊んでいないので、システム含めわからないことが多い。操作できるキャラクターがいちいち新鮮で楽しい。

 なかでもパックマンが一番使っていて楽しいと思ったので、トレーニングモードでひたすらドンキーを殴り続ける、と書くと野蛮でしかないが、実際殴り続けた。ドンキーに恨みがあるわけでもなく(「おまかせ」でたまたまドンキーだっただけ。でも「たまたま」という言葉ほど、無邪気で最低な言葉も無いよね)ドンキーに果物を投げ、消火栓を落とし、とにかくぼこぼこにしてやる。自分の猟奇的な部分が表出していると感じる。

 確か映画「ハリー・ポッターと賢者の石」で、ハリーとロンが遊んでいた魔法界のチェスを見たハーマイオニーは「なにそれ、野蛮じゃない!」と呻いた。ドンキーをめためたに殴る私の脳内で、あのハーマイオニーの声で同じセリフが延々と再生された(なにそれ、野蛮じゃない!)。確かにスマブラを「野蛮だ」と指摘することはできるかもしれないが、それはまた別の話だろう。実際に誰かを殴ることと、仮想的な空間で間接的に殴ることの違いはあるのか、ないのか、あったらそれは何なのか、云々。難しい話だ。

 私はむしろ、サンドバックと化したドンキーに延々とパンチを食らわせる行為に対して感じた、「安心感」みたいなものが気になった。定例化された作業。漢字の書き取りに似ていた。箒で枯葉を掃くこととも似ていた。あるべきものがあるべきところに収まるよう、地道にこつこつと繰り返す行為は自分をとても安定させる。多分それは、日常が不定的な、無秩序な、固定化されないものだからだろう。いや、遠く遠く真上から見下ろせば、私の生は決まりきったパターンを繰り返しているのだろうけど(それは自分もわかっているけれど)いまいち実感できないのだ。毎日同じことをしている、そしてそれに確かな重みを感じることができない。ドンキーを殴れば、殴った分だけ撃墜%が溜まっていく。日常にそのように数値化できるものはさして多くないから、段々と溜まっていく%に安心感を抱くのかもしれなかった。

 ゲームは、わかりやすいのだ。だから楽しいし心が休まる。でも、ゲームの中で生きるわけにはいかないでしょう? というのが私の考え。撃墜%みたいなものが、実生活に欲しいなあと思う。毎日同じものを食べるとか、ルーティーンがあるのも「安心感」に関係している。それらの「安心事」に依存することなく、軽やかに、毎日これと決めたものを続けてみるのも面白いかもしれない。

 あと追記するけれど、そうして定例化され、形骸化された行為の例として「人間をガス室に送る」は挙げられると思っているので、行為と意味についても引き続き考えたい。行為からどの程度まで言葉を抜くことが許されるのか。それはもしかしたら、人間であるということにつながるかもしれない。つまり、言葉を抜けば抜くほど人間でなくなるということ。