切符、そして形のわからない駅舎

 知っているアイドルが亡くなり、当然気持ちの整理はつかない。背が高くて肩幅が広くて笑窪が魅力的で優しそうな人なんだよー(優しそうな人だったんだよ、と過去形にするのは躊躇う)。

 で、今この瞬間自分は何を考えているのかと言うと、

  • 死というのは結局生きている限りは経験しえないことだから不思議
  • 不思議だから一体どういうものなのか気になって仕方がない
  • 悲しいというよりは残念という気持ちが大きい
  • 死ぬってのはそれはもうとても大きな不可逆的な行為
  • 不可逆というのは、死んだ状態から生き返ることは不可能らしいので不可逆
  • 不可逆だからこそ「おい、何してくれてんの」という憤りの気持ちもある
  • 死ぬと結局更新がそこで止まるから面白くなくなっちゃう
  • もののけ姫」の最後にトキさんが言ってた「生きてりゃなんとかなる」という言葉がやっぱりかっこよくて好き
  • とはいえもちろん、個々人の生に対する考え方を否定するつもりもない

 私はこういうイメージを持っている。人は生まれながらにして誰もが(正確には「誰もが」とは言えないかもしれない)「死ぬことができる」という一枚の切符を持っている。それをいつ使うかは人それぞれである(切符=権利と言っていいかは、まだわかっていない)。私もその切符を持っているので、実際のところ今この瞬間にでも使うことはできる。でも、今使っていいのかはわからないから使わない。ただそれだけのことである。そして、当然のことだけど、年がら年中切符のことについて考えなくたっていいし、存在自体を忘れたっていい。切符を自ら使わずとも、最終的にはどこかの駅の改札にたどり着き、その切符を駅員さん(それは死神と呼ぶこともできるかも)に見せなければならない。必ず、どんな人間であっても。

 切符を半ば強制的に回収されてしまったのか、自ら差し出したのかはわからないけれど、私の知っているアイドルは切符を使ってしまったようだ。起こったことはそういうことで、あとは生きている人間の感情がぞろぞろとそこにくっ付いていくばかりだろう。今の私はどちらかというと、感情ではなく、切符とレールと駅舎と駅員と改札口を抜けた先にある場所のことを考えたいようだ。どういう駅舎なのか、駅員はどういう身なりをしているのか、改札を抜けたらどこに行くのか(まあ、こうして言葉を用いて説明することはできないのだろうけども)。

 とにかく残念である。そしてつまらない文章を書いてしまったな、と思っている。