おそらくなにかしらの鴨

 水辺の近くを歩く。川岸に芝生が広がっていて群れ咲く水仙の白と黄色の鮮やかさに魅入る。芝生は素直なもので、冬の白っぽさから一転、日に日に濃く青くなっていく。スニーカーで横断するとき、私は少し緊張する。植物を踏んでいいものかしら、という躊躇いが生まれる。それは過ぎた配慮ですよと自分で自分にツッコミを入れる。物事というのは難しいなと思う。

 芝生にて。何かしらの鴨の群れが草を啄んでいる。そういう鴨を見るのはなんだか新鮮で、私は立ち止まるとスマホを横にして二三枚写真を撮る。コンパクトデジタルカメラを持ってくればよかったと後悔する。最近「どうせ写真なんて撮らないだろう」と机の上に置きっぱなしにすることが多い。写真を撮ることと、本棚から本を選ぶことと、ゆっくりと買い物をすることは似ていて、いずれも私の中では大切にしていることで、それが失われつつあるというのは何かしらの兆候ではないか。それはさておき鴨だ。

 愛らしいとは何か。ポケモンの新作を遊んでいると、今まで感じてこなかった既存のポケモンの中の愛らしさによく出会う。ぽってり。でっぷり。もったり。丸みというのは愛らしさにおいてキーとなる要素。もちろん目の前で懸命に草むらに嘴を突っ込んでいる何かしらの鴨たちも丸い。胸のあたりが特に。「かわいー」と私は心の中で呟き、うっとりし、写真を撮り、それを拡大し、やっぱり可愛いわねと一人頷き、なんてことない顔をしてスマホをしまって再び歩き始める。人間というのは複雑な生き物である。内面ではこんな風に情動がおき、消えていく。冬は終わり春がやってくる。