春の小道の考え事

その事に対してその人が感じたことはその人にしかわからないのだよなあ(その人ですらわからない場合もある)という考えが、歩きながらふっと浮きあがってきた。ユキヤナギが真っ白に咲く、春の小道の出来事だった。

その人にしかわからないという、概ねその通りだと思われることを口実に、人間、怠惰であろうとするのではなく、わからないと知りながらわかろうとすることが、私たちには必要だよね、以上、おしまい

という話になるのだろうか、これは。

犬を抱えた女性とすれ違った。茶色の、ダックスフントパピヨンかチワワか。私は犬、そして女性と順に視点を移し「犬はいつか死ぬのだぞ」と思った(申し訳ない気持ちになった)。何故そんなことを考えたのかというと理由は明白で、先日飼っていた犬を亡くしたからだった。犬は死ぬ。残念ながら。もちろん人間も死ぬ。寂しいことに。

白濁したその瞳は、きな粉のかかっていない、つややかなわらび餅のような震えを帯びていた。まばたきも少なくなり、おそらく何も見えていないだろう瞳は確かに綺麗で、うつらうつらと窓から差し込む光を受け止めるその瞳を私は顔ごと撮影した。

ということを誰が理解するのか、と問うことに意味はあるのか。理解できても理解できなくても、世界はそうであったという事実をただ残したいだけなのだろう(私は)、そして私以外の誰にでも、見えるもの感じるものはあるはずで、そこに対して私は如何にして思料するのかい、どうやって? ということを考えていたのだった。

暖かな昼下がりだった。少し先に見えるベンチは何故かカラーコーンとポールで囲われ「なんやの」と私はほんの少し苛つき(ベンチを開放しないとかあり得ないんですけど)近寄ってみればなんてことない、ベンチの枠組み部分をペンキに塗って乾かしているところだった。なんだあ(にこにこ)。ペンキの色は深い緑色で、私の好みの色だった。