整理

 限界(の遥か手前の限界)だったので、1年半ぶりの公園へ。

 今回は、松屋にてねぎ塩豚焼肉丼をテイクアウト。たっぷり歩くときは、さっぱりとした味の方が相性が良いと感じる。

 一眼レフで写真を撮りまくろうと思っていたらバッテリーを装填するのを忘れた。出かけるときはコンデジと一眼レフ、両方を持っていくので事なきを得たが、コンデジだと写真を撮っているという感覚に欠けるので物足りなさが残った。とはいえ、家に帰って撮った写真を見返す瞬間はいつも楽しい。

 ノートも忘れた。仕方なく、途中のコンビニでCampusのノートを買った。歩いて、疲れたらベンチに座って休んで、ぽつぽつと浮かんできた言葉を書いて、気が済んだら歩いて、を何度か繰り返す。ある種の治療なのだろうと思う。本当は一日単位でやるべきことなのだけれど、それなりに疲れる作業で(楽しいとは思う)おざなりにしていると痛い目を見るという感じだ。

 

 休日だし、人が多いのは嫌だなあと思って、公園方面に歩く人たちに対して「お前も公園行くんか!」「お前もか!」みたいな感じで表情には出さないけども敵愾心を抱きながら歩く。狭量だな、私と悲しくなる。公園は海みたいな心の広さを持つ。広大な敷地を有するわけで、確かに駐車場は激混みだったけども、そんなの園内に入ってしまえば気にならないくらい広い。奥にへ奥へ歩いていくと視界から見事に人が消えていく。子ども用の遊具が集まるエリアの近くまで行くとたくさんの声が聞こえてきて、ああ、ちゃんと世界には私以外に人がいるのだなと安心する。きょうだいのところに子どもが生まれたので、自分の中で子どもをもつ人に対する眼差しが変わったのが自分でもわかる。大変なことだし、不思議なことでもある。

 

 梅がよく咲いていた。その芳香は甘く、人を魅了する。桜はぼんやりとした甘さだなあと思っていて、梅はもうちょっと強い甘さである。梅林というと身構えてしまうので、ぽつりぽつりと咲いているぐらいが綺麗だなと思う。

 

 ただひたすらに歩いた。もはやそれは修行というべきでは、という烈しい歩行だった。毒と表現するのはしっくりこないけれど、毒的なものというか濁りというか澱みというか、そういうものをデトックスする作業。いいや、整理・分類する作業と表現するべきかもしれない。動いていないと頭が働かないようで、机に向かって書き物をしているより、動いている最中の方が色々と冴えている。考え事の整理も然り。

 

 あまりに疲れてしまったので、メインの園内路を逸れた小道の、凹凸のないベンチに腰掛けると頭の下にノートを敷いて横になった。空が見えたので写真も撮っておく。真上を見上げることは普段生活していてあまりないことだ。急激に気温が上がっているのがわかる。太陽の光が熱い。スマホのアラームを15分にセットして仮眠をとる。生垣の裏では、ゲートボールだか、新しいレクリエーションだか、おじさん4人組ぐらいが何かゲームをしていたのは横を通り過ぎたから知っていて、そのおじさんたちの声が鳥のさえずりや遠くで聞こえる子どもの歓声に混じって悪くなかった。顔に降り注ぐ光線でじりじり焼かれ、喉が渇き始め、アラームがちゃんとセットされているか心配になって起き上がると、ちょうどスマホが鳴った。少しの仮眠は体に良いらしい。確かに、眠気と疲労が幾ばくか和らいで、私はのそのそと立ち上がりリュックを背負うと、再び歩き始めた。

 

 帰り道に広場を抜ける。その広場は芝生のなだらかな傾斜にベンチのようなオブジェクトがずらりと並んでいて、人々はそこに腰掛け思い思いに談笑しているようだった。半分以上は男性と女性のペアで、他にも男性同士、女性同士、三人組四人組、様々な人たちがいて、それは眺める私の頭には「恋人たちは語り合いたい」という言葉が浮かんでいた。別に恋人以外の関係性もあるだろうに。まあ、なんであれ人はたくさん喋りたいものなのだろうということを、とにかく考えていた。微笑ましい光景である。そして、この日に限っては私は自分のことを惨めだとも思わないのだった。焼肉丼おいしかったし。たくさん歩けたし。私は私の好きなことを知っている。それがきちんとできていればいいのだと、思っている。問題は、日々に摩耗して好きなことが好きでなくなってしまったり、好きなことができなくなることであり、さてどうしたものかなーということを、宇多田ヒカルをBGMに駅までの道を歩きながら考える。