死を受容する

 死がそんなに大きなこととして捉えられているの嫌だなあ、という気持ちと、いやいや、人が死ぬということはめちゃめちゃ大きな出来事ですよ!の、相反する気持ちが共存していて嫌になってしまう、仮面ライダー龍騎怒涛のラスト四話であった。

 前者については「いや、だって人はいずれ死ぬじゃん、それが摂理じゃん、そのことに一々拘泥していたら身がもたなくない? 悲しいかもしれないけれどそれまでの生をどう生きるかが大事じゃん」という私で、後者については「いや、人が死ぬってのはめちゃめちゃでかい。その人が考えていること、考えてきたこと、見たこと聞いたこと、そういうのが一気に無くなっちゃうことだし、この先、その人が送る未来もないってことだよ」の私である。

 よくよく考えると矛盾していないのかもしれない。これまでの人生を尊重しそこにこそ価値を認める私と、その人が生きるはずだった未来が失われることを残念がる私。いずれにせよ「死んでしまったこと」そのものが悲しいわけではないらしいということがわかった。後者の方が強く出るのは、多分、私がその人に少し愛着を抱いていたり、そもそも失われた未来がでかすぎる場合なのだろうと思う。となると、私とその人との関係性によって、他者の死がもつ意味合いが変わるということで、それは人として不自然ではないけど公平ではない。そういう差が生まれてしまうのが、自分の中でもやもやしているのかもしれない。この人のことは好き、この人のことはそうでもない、の残酷さ。

 私はみんな(龍騎の登場人物)に生きていてほしかった。そしてその願いの一部は叶えられたし、残りも平和な着地点を得られたのかもしれない。ただ、長い物語を通して描かれてきた様々な葛藤が、新しい命の創造に費やされ、葛藤を引きついだ人生の延長にならなかったのが結構寂しいのかもしれない。私は経験を生かし、ある地点からその先の人生が変わるところが面白いと思っている人間だから…。

 龍騎のラスト四話は、それぞれの登場人物がそれぞれに死を受容する在り方が描かれていると思っている。死を受容するというのは、自分の人生の在り方に思い馳せること。そこには、自分がどう在りたいのかという願いがある。

 「さあて、あなたはこれからどう生きますか」という問いが投げかけられた気がしているが、あいにく、そういうこと考えるのは嫌になっちゃうのよねえ、真面目に生きるのつらくないですか、という私がいて、折衷案として、軽やかに願いを温めながら生きるのでどうでしょう?(龍騎はあまりにシリアスすぎた(そこが良い所))。